2010年02月22日

捜索の手引き

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物理的に追い出しを喰うことはあらねど
状況に押し出されての屋移り
術なし術なし
ナポリタンは駄菓子
李白と杜甫
ヘンゼルとグレーテル
ごとうさんと洪水波浪注意報
しょんべんくさいがきの意味がわかる
敏感すぎる中年
ぶどうジュースを葡萄酒だと勘違いしていた
時代を忘れちゃいけない
雲は炎で燃えて空
友達はみんなまじめ
天蓋町
地下町
posted by 地図書きのゆみ at 22:37| 東京 ☀| 作文集(ひまつぶしによむよみもの) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月12日

誰も彼も贈答は未熟

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離婚したばかりの友人と会うのに,
何か慰めになればと思い,
市販の小説を選ぶのだがこれがなかなかにむつかしく,
夫婦にまつわる小話は生々しかろうと遠慮すれば,
あまりに能天気な青少年の与太話では
何をのん気な,と彼女.
腹も立ちすなると書棚へ返却.
さりとて苦労人の不幸譚を贈りもすれば,
貴殿の悲惨の上には上がと,
なにやら説教めいたものを匂わせはしまいかと
思われて却下.
これ,という確信も得られぬまま,
穂村弘の「現実入門」に思いを託す.

誕生日の数日前に,
実家の家族から
手紙と記念品の腕時計が送り届けられたのだが,
いよいよ明日という前日に母よりの電話.

お贈りした腕時計のことだけど,
ちょっと貴女には地味すぎるので,
お母様も時計を買うからその新しいのと交換をしましょうよ.
あなたにあげたその時計,
お母様にはぴったりだから.
お母様にも必要なのよ,銀色のやつが欲しいのよ.

電話が切れて,時計をはずす.
針が進んで三十歳.


直子さんからメールが届く.
「おいでやす新しい世界へ」

直子さんの住まいは京都の地蔵がたくさん
いる土地らしく,
会社帰りに地蔵につかまりそのまま帰宅.
家に棲みつく輩も多いという.

よければ地蔵を差し上げるけれど
気難しくてあなたみたい.
年の数だけ地蔵を持てば,
少し体力つくかもね.

じゅうぶんじゅうぶん,お気持ちだけで.
かさばるものなら尚のこと.
私によく似た地蔵など,
お話だけで手いっぱい.

いまだ昨日と地続きの,
ここは三十代の国.
posted by 地図書きのゆみ at 11:58| 東京 ☔| 他生の縁(みのまわりのことなど) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月07日

be my see more,love franny

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サリンジャーがこの世を去り、
15年ぶりに「ライ麦畑でつかまえて」を
読もうと自然に思い立って、
だから書店へと急ぐ。

村上春樹氏の訳である
「The Catcher in the Rye」のほうではなく、
あえて当時読んだ野崎孝氏による訳書のほうを手に取り、
懐かしい表紙(象牙色とサファイアの青色とのツートン・カラー)
を眺めると、
どうもお久しぶり、とか、いろいろありがとう、
とか、でもまだぜんぜん、ぜんぜんぜんぜん、
とか、ひとくちに言えない、とりとめのないつぶやきごとで
口の中が満ちて考えの道筋を乱していて、
ページをめくってもなかなか、足跡になってしまった
言葉を飲み込みゆけずにしばらくを過ごす。

ドストエフスキーとかサマセット・モーム、
夏目漱石や森鴎外の本を読むときは、
主去って久しい城をそぞろ歩くようにむしろ心は晴れやかで、
その歴史や時の隔たりがかえって城の偉大さをずしと
重みに変えてビカと光らせうならせる、
それが常なのだけれども。

現在進行形の王国が、
たとえその全盛の時代を離れて
鎧脱ぎ静かに沈黙していたにせよ
ある日レコードが終わるように
鳴りやんで、ぽつりとも音がしなくなってしまう、
その無音のさびしさ。
物語は今なお丘の上にはためいて高らかに、
けれど鳥は鳴き、けれど風は吠え、
太陽がのぼりまたいちいちと海の向こうに
落ちていくことの何とも言えぬ寂しさ。

作品を受け取って、語り継ぐ、
その単純極まりない
読者としてのしぐさを持って、
J.D.サリンジャー氏への敬愛と
哀悼の意に変えたいと思う。

posted by 地図書きのゆみ at 21:28| 東京 ☀| 心中(いつかはきえてゆくものたち) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

「わたし」の不在と彼の「地点」

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地点第17回公演
「あたしちゃん、行く先を言って」
を見た。

地点の作品は演出がかなりパフォーマンス寄りで、
戯曲をもとに作られてはいるが
そこから生み出されるのは物語ではなく
ひとつの音楽であり、風景である、
といってもいいかもしれない。

毎回作品において特徴的なのは、
役者がセリフを言うときに
セリフの内容とは関係なく、
その文節が不自然な区切れ方をしていたり、
言葉が引き伸ばされたり、
いっさい棒読みになったり、
抑揚も声量もそこに乗せられる感情までもが、
意図的にセリフの内容と引き離され、
いかにも「不自然」にコントロールされている
その独特の発話法である。

この手法によって舞台上の言葉は,
セリフの意味やセリフによって導き出されるはずの世界観、
を伝える機能をいちじるしく奪われ,
意味を漂白された音の連なりとなって、
我々がふだん使う言葉とはまた別の存在感を持ち始める。

同じ意図は作品全体の演出にも徹底して貫かれていて、
たとえば,何かセリフの中にあるキーワード、によって
いやがおうにも具体的な物語、あるいはそれを連想させる関係性
が生じようとするとき、
それを次の瞬間には溶かすようにして
場面は操作され、物語になりかかったものはたちまち抽象化される。
舞台上で、役者の言葉や演技が抱え込んでいるはずの
なんらかの意味ある情報を無価値化してしまうのだ。

そのためにたびたび繰り返されるのは、
役者がお互いのセリフをシャッフルしたり、
発声練習がごとくセリフを極端な抑揚で試し読む行為だ。
あるいは、漠然としていながら極めて丁寧に行われる
抽象的な動き、無目的化された身体の運動。

それらは、セリフや行為が特定の誰かのものではない
ということ、舞台上の役者の誰一人として、
そこで話される言葉の内容に決して寄り添ってはいないのだ
ということを明示する。

物語が展開していくのを見せる芝居を観るときに
我々が当たり前に想定するような
お話の中の登場人物たち。
それすらもまた、地点の舞台には不在なのである。

役者は音を出す装置であり、
感情を演じてみせる機械である。
音や、動きといった結果はあるのにもかかわらず、
主体となる「人間」だけがいない、という不在感。

その不在感が、
どんな熱演よりも「言葉を口に出す」
という行為の不可思議さを観客に差し出し、
演じる対象を取り去ったときに初めて見えてくる
「演じる」行為そのものの姿を浮き彫りにして見せてくる。

抽象性の高い演出に加えて、
モチーフとなった戯曲がコラージュ的であり、
さらにそこに同作者の他の著作からも
引用した作品づくりをしているとかで、
面白い部分と、冗長な、つまらない部分とが混ざっているようにも思えた。

しかし、こうして作品を振り返って
何を見たのかを言葉にしようと考えるときに、
面白さもつまらなさも同様に作品の一部として
仕組まれていたのではないかと、
改めてそんな風にも感じる。

地点
http://www.chiten.org/
posted by 地図書きのゆみ at 21:41| 東京 🌁| 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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