2011年12月11日

繊細家が行く埼玉圏、めのなかのドライブ

いお.jpg

セザンヌたちは描かなかった、未来の国のさいたまけんを
地球の自転にさからって、くるまは西へとつきすすむ。

古びた魔法の絨毯のように冬の畑が横たわって、
家々はその中にさびしく取り残されている。
まるで、だれかが、かたづけわすれたおもちゃみたいに。

もう、世界は、別の部屋へとすでに。
移動してしまったのです。
秋は、ずいぶんと年老いてしまったから。

色違いのマッチ箱のような人々のすみかは、
そのような季節の伝言板の一部として、
いまなお、景色の中に滞在している。

今生の終わりに勃起するという、純粋な好奇心みたいに柿の木がいっぽん、
わたしという写真機の、あいまいなフレームの中で立ち上がって、
そしてその中で、
柿の実たちは、一心不乱に空を見つめている。

なにが? 
見えているの?
そこに。

わたしが柿の実を見つめているかぎり、
かれらの見ているものはわからないのに、
わたしはかれらから、けっして目をはなすことができない。
死んでしまった命のような、
なつかしい点描のしぐさがつくる、
線香花火のさいごにも似た、
果実たちのすがた。
なぜ?

わたしのしらない仕組みでくるまは、
あっという間にあたらしい眺めをはこんできて、
それをこの目の中にどんどんと注入している、
麻酔薬もなしに。

だからときどき、いいえ、もっとひんぱんかもしれない。
トゲのように刺さって、わたしをきずつけるような、
しあわせなふうけいや、うつくしいなまえ、
不完全にみえるせかいが、きょうも大団円をむかえている、ということ。
そんなこの世のながめたちに、
ふいにおとずれる恩寵に、
わたしはおじけづいて、たちすくむことしかできない。
ひりひりといたむ、きずついた粘膜をかばいながら。

これが、こんなふうないまが、
この世界で、わたしという存在が、ある、ということなのですか。
これが、このかなしみに似た、とある人生の記録映画が、
きっぷとこうかんで誰かに分かたれるような、
そんなある日が、
そんな種明かしみたいにすばらしいある日が、
いつか、わたしにも、おとずれるのですか。

けれど、やはり。
たずねてみても、やはり。
見つめているうちは、この世界が何を見ているのか、
わたしにはわからない。

目の中から外に出て、さむぞらにガソリンのにおいをかぐと、
くるまは夜の中に停車して、
欠けていく月の姿を、じっと見ている。
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 23:11| 東京 ☀| Comment(0) | 作文集(ひまつぶしによむよみもの) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする