2014年02月25日

けもの桜、うめ乙女

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さくらはとっても嫌なのです。
だって、あれは草木でなくて、むしろけものにちかいから。

みなさんさくらをよろこびますが、みぐるしくって嫌なのです。
さくらのちらちら白いもの。風によじれる白いもの。
それはさくらの色じかけ。

みなさん色には目がないようで、おらおら出かけて酒に酔い、
「みごとだ、みごと」とものを喰う。
なんとたやすく色香にまどい、おほねを抜かれてしまうのか。

わたしは何だかはがゆくて。
けれど手出しはできません。

さくらのみごとな正体は、宴も飽いたそのころに。
太くて黒い腕ぜんたいに、ゆさらゆさゆさ青髭はやし、
まるでおとこのようなのです。
まるでけもののようなのです。
欲が土から顔を出し、立った姿がさくらの木。

わたしはまいねん見ています。
どうせここから動けずに、さくらを伐るのも人のわざ。
だからわたしもささやかに、小梅を肥らせ色じかけ。
posted by 地図書きのゆみ at 15:05| 東京 ☀| Comment(0) | 作文集(ひまつぶしによむよみもの) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月22日

笑っちゃうほどカレーがまずいカフェの実在について

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自宅周りはとにかくこじゃれたカフェや雑貨屋が多い。 外を歩いていると3歩おきくらいにおしゃれゾーンに突入してしまう。
そのため土日など外出の折は、「うわーこんなおしゃれな場所に場違いな女がいる!」などと蔑まれないように、そこそこ装いに気をつかわなくてはならない。
(※ただし地元住民らは大抵だるだるに伸びたTシャツなんかで歩いている。気を付けるべきは、わざわざカフェを目当てによその土地からやってくるおしゃれ大好きピーポーだ)

そんなこしゃくな土地柄に住んだ甲斐もあって、素敵なカフェを普段使いできるのはけっこう地味に嬉しい。
落ち込んだ日はカフェに行けばいい。
むしゃくしゃした日もカフェに行けばいい。
恋人と連絡がとれない、
借金で首が回らない、
わき腹がしくしくと痛む、
耳から変な汁が出る。
そんなときもどんなときも、僕が僕らしくあるために、とにかくカフェに行けばいいのだ。
ビバ・日本!平成のカフェー文化よ!!
ばばん。

そんなわけで、日常の憂さを取っ払い、心身をリフレッシュしてくれる癒しのリセット・ポイント。
つい半年ばかり前まで、私はカフェをそう捉えていた。
そう、あの店に出会うまでは。

私の住む街の駅前にそのカフェはある。
こうしてこれを書いている現在もまだある。存在している。営業もしている。
潰れないのが七不思議というくらい、カレーのまずいそのカフェ。
メニューを見ると、飲み物が数種類とごはん系フードはカレー1品のみ。
勝負に出ている。

そんな「カレーは自信満々ですから」感に満ち満ちたその店で、私はなかなか抜く機会のない「度胆」を抜いた。抜かれてしまった。
(どうでもいいですが、「どぎも」ってすごい響きですね。NTTドギモ、とか会社があったら、すごく電波が強そうです。)

それがあまりの不意打ちだったために、店主が衝立のすぐ向こうに控えているであろうその座席で「なんだこの夢のようにまずいカレーは」という素朴な驚きを隠すことができず、ついついダダ漏れにしてしまった。
口にスプーンを運んでは、その皿の味がすみずみまで均等な「まずみエキス」で満たされている事実を確かめるように、私は「まずっ」という反射的な一言を幾度も幾度も口に出して繰り返したのである。

ぱくっ
まずっ
ぱくっ
まずっ
ぱくっ
うう・・・まずい・・・・

お百姓さんに悪い悪いと思いながらも、礼儀正しい私は完食せずに店を出た。

思えばそれは、「カレーを目指してこれほど本格的にまずいものを生み出せる店があるなんて、逆にすごい」的な新記録の樹立であった。

とにかく目を見張るまずさ。

怒りや落胆を通り越して、私はむしろ嬉しかった。このおしゃれな街には到底釣り合わない、驚きのカフェがあるというその事実が。
しかし喜びに反して、ハートとボディは確実にダメージを喰らったようである。
楽しいひとときを単体でぶち壊すほどにまずさの際立った料理。
それはもはや肉体と精神の両方面における暴力と言えよう。

ともあれ、人間外堀が埋まっている状況に置かれると引っ込みがつかない。
皿の上にのせられた、かつてないインパクトを与えるそのメニューを前にして、ひとくち食べてやめる、という大人の英断が私は下せなかった。
自分も人としてはまだまだ。しかし、それもこれもあのカフェが悪い。

ちなみに駅名と「カフェ」のキーワードでネット検索すると、その店についての記事がおらおらと出てくる。
「おしゃれでいい感じの時間過ごせますよ」的な雰囲気を、そこはかとなく匂わせながら。
posted by 地図書きのゆみ at 22:58| 東京 ☀| Comment(2) | 観(あのときはこうおもっていたようだ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月19日

熱血!マサチューセッツお味噌汁大学

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本日の講義はとてもエキサイティングなものになると確信しています。
人類の過去、未来、そしていま私たちが生きるこの現代を見つめ直すための貴重なワークショップとなることでしょう。
お味噌汁が人類史において発揮してきた類まれなる功績について。
みなさんと私とで即興のディスカッションを行い、そこに新たな意味と、今後の展望を見出すことで、我々がよりよく生きていくための一助としたいと強く願っています。

ではさっそく。

そもそも、みなさんにとって、お味噌汁とはいったいどういう存在でしょうか。
神でしょうか。悪魔でしょうか。
この世のすべての創造主。それもよくある回答です。
最近では、「宇宙はお味噌汁である」などという学説もかなり有力になってきていますね。
たしかに。
お味噌汁にはそういった一面も確実にある。
しかし、そういった使い古された模範解答を、今日この場で持ち出すことは控えておきましょう。
まだ若い皆さんの中には、お味噌汁を必要以上に重大なものとして捉えるか、もしくは神の不在を高らかに宣言するがごとく、お味噌汁などそもそも存在しないのだ。ネス湖のネッシーやバットマンなどと同じく、人類のフィクション欲の産物だ。そんな具合に、極端な意見に偏る傾向が多く見られます。
もちろん、たしかにそれらも、お味噌汁(正式にはオミソシールですが)の解釈のひとつとして、けして間違っているとは言い切れません。
むしろ圧倒的な正しさと真実とは、そのように直感的でひどく偏って見える解釈のうちにあるように、私などは思います。

ともあれ、せっかくの機会です。
本日はもう少しだけ違った角度から、お味噌汁を今までにない座標へと位置づけ、再定義してみようではありませんか。
その材料として、最初に私がここ何年か研究を続けてきた中で、お味噌汁について改めて疑問に思ったことや、「これはひょっとして」と思われる仮説をいくつかをみなさんに紹介しますので、それらを議論のたたき台にしてもらうとしましょう。

まずは、古代エジプト文明におけるナイル河の氾濫。この原因がお味噌汁であったとする学説について。
スライド1を見てください。
posted by 地図書きのゆみ at 10:09| 東京 ☀| Comment(0) | 作り話(あっとうてきなしんじつ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月18日

あたらしい皮膚について相談をしよう

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離縁してからしばらく、時間や貨幣の使い道について何か右往左往する期間が続いていた今年の下半期であるが、ようやく地に足が着いてきたような、手がかりが見つかったような、そんな気分で百貨店やその路地裏の喰いもの屋なぞで散財しては、暇をつぶす近頃である。

数年に及んだ私の婚姻期間というのはすこぶる目的意識に満ち満ちていたが、今にして振り返ると、はて、その強靭なる鉄の目的目標は、いったい誰のものだったのか。
それが判然としない状態でも生活という歯車はよく回るもので、よく回るからそれが正しい暮らしぶりだとそのように信じ込むことで、私は数年をことさらに幸福な人間として生き、気づかぬうちに不幸にもなれた。

自分への詐欺が破綻した本年は奇しくも後厄であり、私をまるごと飲み込んでいた生活自体の解体作業にいそしむこと数カ月。
何の役にもたたぬ労働があるとすれば、それはこの作業なのではないかと「徒労」の2文字を頭に描きつつ、しかしこの幸福詐欺の加害者もまた自分自身であるとすれば、何とも生やさしい刑罰であろうかと気を取り直すこともまたひとつの作業であるのに変わりない。

カウンターの内側に閉じ込められた白粉まみれの女たちが、まるで吉原。まるで品川。
気が付けば私は、廓の匂いの立ち込める新宿伊勢丹美顔売り場にいる。
化粧屋の売り子の齢を推しはかりつつ、その塗られた皮膚の内側に彼女たちの生活を想像し、匂いまでもそっとかいでみる。
女にとっての常備薬だとばかりに、「必需品」とラべリングされた売り物の小瓶は、私もまた一人の女であることを裏付けて際立たせ、ともすると忘れていた記憶までも掘り起こす。魔法の薬。
白粉の香りや、乳液の甘さ。
生活のために諦めた艶々光る香水瓶。
似合わないよと夫が笑った頬を塗るための化粧筆。

禁止事項ではないからこそ、それは手出しのできない贅沢なのだと自分の身の程を思い知り、つましい暮らしに甘んじていた過去の自分。
そして、そのあきらめこそが幸せの仕組みを担う肝心要であったことは確かで、ただしそれが誰にとっての幸せか。それを見ようとしなかったことが、私の落ち度であったらしい。
差し出した手の甲が濡らされて、売り子がやさしくそのあたらしい皮膚を撫でている。

※そういえば、太宰治の短編『皮膚』はとても素晴らしい作品です。
みじめな女とつまらない男がお互いを思いやる、愛とはつまり、みじめでつまらない思いやりなのだと気づかされてしまう、そんな物語。
『皮膚』を書いた人だから、なんとか太宰が好きなのかもしれません。
posted by 地図書きのゆみ at 16:34| 東京 ☀| Comment(0) | 作り話(あっとうてきなしんじつ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月17日

かんたんなかんそうを萌の朱雀に

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私の敬愛する映画作家・ペドロ=アルモドバル監督があの円熟味あふれる『オール・アバウト・マイ・マザー』でカンヌ映画祭のパルムドールを逃した1999年の大賞作品を今でもはっきり覚えている。
それは、『ロゼッタ』というドキュメンタリータッチの社会派映画であった。
ゆうべ、長らく敬遠していた河瀬直美監督の出世作である『萌の朱雀』という作品を観ながら、アルモドバルから金獅子賞をかっさらっていったその『ロゼッタ』を渋谷の映画館で観た時の、あの何とも言えない息苦しさがふいによみがえった。

『ロゼッタ』ははじまりから終わりまで、とある異国の少女の日常生活(生活は貧しくトレーラー暮らし、アル中の母親、殺風景で希望の見えない職探しの日々)を二時間近く、じっと見つめるように観客に強いる映画であった。
それは、主人公ロゼッタの苦労をこの苦行によって追体験せよとばかりの、つらくて長い二時間だった。
それでいて、渋谷の街を眼下に望むBunkamuraの「ル・シネマ」の座席で過ごしたその鉛のような二時間が、この上もなく退屈で無意味な行為のために費やされたのだ、とはっきり断言するのを阻むような、強くて透明な圧力に私は黙った。
まったくつまらないものを見せられたぜ、とは中々言い難い空気が劇場にもロビーにも重たく沈殿し、隙間なく漂っていた。

なんとなく予想していたので特にがっかりもしなかったのだけれど、私にとっては『萌の朱雀』もそういう種類の作品であった。
社会的弱者だとか、虐げられた人々だとか、この映画の場合は過疎化が進む田舎に暮す人々。彼らを登場人物に据えることで、映画としてのつまらなさ・退屈さには目をつぶるように。そういう免罪符じみや囁き声が聞こえてくる、ちょっとずるい作品。
河瀬直美さんはこの映画において、田舎に暮らす人たちの暮らしぶりを「いい感じ」に描きながら、本質的には彼らを何ひとつ描いていない。河瀬さん自身は、おそらく彼らのありのままの姿を「捉えている」と思っているのだろうけれど、実際には無自覚に彼らを映画の小道具に貶めているような印象を受ける。
映像は、深い山奥の自然とそこに住む人々を美化し、素朴で簡素な暮らしに共感するにとどまっていて、奥行というものがない。そこにあるのは、ただのイメージだ。田舎というイメージ。そこに住む人々、というバーチャルなイメージ。温度も湿度も匂いもなくて、つるりとした都合のいいイメージだけが延々と連なっている。それが嘘くさくて、人工的で、とても息苦しい。

作り手の想いと実際の仕事とのズレが耳障りなノイズとなって作品全体を覆っている。
それがこの『萌の朱雀』という作品の最大の欠点であるように私は思う。

そんなわけで、作り手が創作という行為の中に本質的に含まれている偽善について盲目である、というのは非常に罪なことであると身につまされるとともに、しかし実際に観てみると漠然と予感していた苦手意識の輪郭がひじょうにクリアに際だって良いね、とも思ってみる。
ゆうべはそんな夜だった。

posted by 地図書きのゆみ at 18:38| 東京 ☀| Comment(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

その愛の名はタナトス、あるいは「戦場のメリークリスマス」


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2013年の初秋に勝手にスタートした大島渚フェスティバルin自宅。
「愛のコリーダ」「御法度」と観てきて、3本目の上映作品は、かの有名な「戦場のメリークリスマス」である。
坂本龍一が手掛けたあのメインテーマ曲は、もう日本人なら誰もが骨身に沁みて耳タコ状態であるというのに、当の映画がどんな内容かをほとんど知らずにいる人も存外多いのではなかろうか。
かく言う私も、デヴィッド・ボウイやビートたけしが戦場を舞台に敵と味方の立場を越えてハートフルな交流を繰り広げる的な、そんな安直でいて鉄板のストーリー展開を予想していた。
たとえば日本人であるたけしに向かってフレンドリーに微笑むデヴィッド・ボウイ。
星空を見上げてニヒルに笑うたけし。
交わす盃。ほとばしる友情。
そこにあの静かに寄り添うような坂本節が流れる。(もちろん感動的)
うわー人間っていいよねー!
友情に国境線なんか引けるわけがないよねー!
戦争をなくすために、みんなでがんばっていかないとねー!
・・・みたいな。

正直そういう何となく「いい話」っぽいものを想像していた。
そして、そこがあんまりこの有名作を観る気にならない大きなポイントでもあった。

しかし、渚はそんなハートフルな人間ではなかった。
もういい加減に分かってきた。
渚はそんなハートフルなんか、とっくの昔に、それこそオシメが取れるよりも、ハイハイを始めるよりもずっと以前に、おそらくサクっとかなぐり捨てて、この世にbornした人なのだろう。
渚は渚になる以前からきっと大した大人だったのだと思う。
だからこそ、大人にしか撮れない映画を撮り、大人じゃなくちゃ味の分からない人間同士のかそけき淡い何事かを描くことができるのだ。
それが大島渚という巨匠。
私が完全になめきって観た「戦場のメリークリスマス」は、そんな渚のまた新しい大人宣言であった。

・・・というわけで、以下は個人的感想の覚書なり。

●これは戦争映画ではない。

「戦場の」というタイトルからも分かるとおり舞台設定は戦地である。
しかしその設定は、戦争そのものを描くために用いられているわけではない。一つの共同体で施行されている常識・ルールが極まった状態、すなわち差異や例外が許容されることなく、個別の人間性を肯定する遊びの部分がどこまでも排除された杓子定規で偏った環境。そのような環境に順応できる人間(ハラ軍曹:ビートたけし)と、順応しきれず葛藤を抱え込んでいる人間(ヨノイ大尉:坂本龍一)という二つの人間像の典型を描出するためのあくまで背景、あくまで舞台装置である。

(戦争映画の定義というのが明確にあるのかは知らない。知らないけれど、戦争という状況がほかの要素と置き換え可能である時点で、本作を戦争と分かちがたく結びついた、いわゆる「戦争映画」とするのは適当ではないように私は思う)

●2組のカップルの間の必然的な差異。

捕虜であるロレンス、そして彼ら捕虜たちを監視するハラ軍曹(ビートたけし)。この2人の間の友情めいたコミュニケ―ション。
ヨノイ大尉(坂本龍一)と彼が目をかけるジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)の関係性。

この2つは、2組のタイプの違うカップル(同じ資質を持つ者同士の組み合わせ、あるいは異なる性質を持つが故に組み合わさることが不可欠な両者)として捉えることができる。
ロレンス=ハラのカップルは国籍や価値観といった個人を支えるバックボーンこそ異なるものの、非常に現実的な生命力に満ち満ちているという点で似たもの同士だ。

戦時下で敵国の捕虜となっても希望や自尊心を失わないロレンス。
軍隊式の規律の中で何の疑問を抱くこともなく自分の職務を淡々とこなし、ともすると活き活きとしているハラ軍曹。
2人が会話するとき、彼らの立場の違いは限りなく透明になり、そこには息の合った長年のコンビのような居心地の良さが醸し出される。

対するヨノイ(坂本龍一)=セリアズ(デヴィッド・ボウイ)の関係は、もう少し複雑である。彼らは紛れもなくカップル(同じ資質を持つ者同士の組み合わせ)でありながら、片方がもう片方を追いかけるような構図の中に落とし込まれている。

ヨノイ大尉は軍事裁判にかけられたセリアズを助けて自分の監視下に捕虜の一人として置くことになる。そこにはヨノイの恋心とも崇拝とも取れるセリアズへの激しい想いがある。理想主義者であるヨノイは、戦地での鈍磨な人間関係や自分自身の理想の挫折に倦んでいる。一筋の光を、彼はセリアズに見出したのかもしれないし、またはセリアズの登場でヨノイの中にあった同性愛的な感情が発現したのかもしれない。そこはいかようにもとれるし、すべてが混沌と混ざり合ってひとつの想いをかたどっているような印象も受ける。

対するセリアズは彼自身の人生や希望をすべて過去に置き去りに戦地へやってきた人間である。作品の後半に挿入されるセリアズの回想シーンで、彼が戦地でどんな功績を上げようとも現在にも未来にも希望を持ちえないことが語られる。

ヨノイ=セリアズのカップルは、周囲の環境と自身の内面とのずれに苦しんでいるという点において大きな共通点を持っている。そしてセリアズが「希望を持たない」という方法である種の達観を得ている点が、いまだ葛藤の渦中にあるヨノイを強く引き付ける。
(この点においてヨノイ=セリアズの組は、異なる性質を持つが故に組み合わさることが不可欠な両者、という性質をも持ち合わせている)

●タナトスとの恋、不可能を孕む。

ロレンス=ハラの二人には、終戦後にハラの処刑という結末が待っている。しかし、彼らの関係がどのような形で終わるにせよ、双方向での想いの交換がなされていたという点でいわば「両想い」であり、彼らは幸福な関係にあったと言えるだろう。

一方、ヨノイ=セリアズの場合は、終戦前にセリアズが捕虜収容所で刑に処され、またヨノイも戦後に処刑されるという運命をたどる。まるで運命までもがヨノイにセリアズの後追いをさせるがごとくの結末である。
しかし、ロレンス=ハラが「両想い」ならば、ヨノイ=セリアズは不幸な「片思い」の関係だったのだろうか。むしろ抗いがたく結びついていたのは、後者ではなかったのか。

物語の終盤。
捕虜収容所の夜の闇の中のシーンは象徴的にいろいろなものを暗示している。

地面に首まで埋められて動けない状態のまま、目を閉じ、無残な姿で衰弱し、死にかけているセリアズ。
そのセリアズのもとに忍んできて静かに近づき、彼の髪をひと房落とすと、それを形見として大切にしまいこむヨノイ。
まるで想い人を死という檻の中に閉じ込めることで、ようやく手を触れることができたような、ヨノイの不器用さと切実な想いが痛々しいシーンだ。

もしかしたら初めからヨノイは死人に想いを寄せていたのではないか。
このシーンを思い返すと、そんな考えも湧き上がってくる。
自分の現在も未来も、新しく創出される人生には何の価値も見いだせず、すべてが過去に作られ、過去に終わっていると感じているセリアズ。その精神は、ヨノイが出会った時はもうすでに死の世界にあったのではないか。
報われない恋にもいくつか種類がある。
ヨノイとセリアズの間にあったのは、生きていこうとあがく人間がすでに死んでいる人間に呼びかけるような、そんな関係だ。
「片思い」とさえ呼ぶのがはばかれる彼ら2人の結びつきは、そういう初めから不可能な関係であったように思う。
それが幸福か不幸かなどということを、この監督はあまり問題にしちゃいない。
ただ「こんな関係もあるのだよ」と耳元でそっと囁かれたような気持ちで、私はこの映画を観終わったのだった。

昨年末にDVD化された「戦場のメリークリスマス」。
なにゆえ今までVHSのみだったのだろう。。。
そしてフェスティバルは続く。

追記:これを書いてから数か月ののち。本作は「戦争という新しいステージを与えられたことで、かろうじて生き延びることができた人間もいたのだ」ということなんかも描いていますね、なんてことを人と話した。
posted by 地図書きのゆみ at 14:25| 東京 ☀| Comment(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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