2014年05月31日

どうして彫刻や器をめでるのかというと。

hans.jpg

言葉への変換がひどくむずかしい感覚や感情。
あるいは、そこまで強く込み上げてくるものではないけれど、うまく言い表せない、他人への伝達方法が見つからないような、漠然と透明で、しかし自分の内側においてはありありと質量を感じられる「その場所の居心地」や「世界の手触り」のようなもの。

感覚未満の、さざなみが起こる直前の静まり返った湖面のような、かすかな予感をはらんだ、皮膚感覚。
「あ」と「い」の間の、どちらでもない、どちらでもある、そういう音。そういう文字。そういう意味。

それらを捉えては、言葉という枠組みに、論理というフォーマットに、何としても落とし込もうとするのが人間の思考の目的であるならば、それを積極的に行うことで随分と世界はいびつな形に再構築されてしまうのではないだろうか、とそんなことを改めて思い、そしてそれは傍から見れば、錆びた時計を眺めながらぐつぐつと限りなく鍋を煮詰めて焦がしてダメにしてしまうような、泣きたくなるやり切れない出来事に似ている、などとも思い、息が苦しくなって、それで時々ロジックやキーワードや定型文ではとても太刀打ちできないような、人工の鋳型には落とし込めないような、それでいて人工的に作られた、巨大な夢の具象物、のようなものに触れたくなる。

歴史の中でこれまでに費やされた膨大な言葉と同じ分だけ、とりこぼされた世界の破片を掬い上げる手があったことを、ほかでもないこの言葉たちによって大いに感謝しながら、器に触れ、胸像にくちづけるのだ。
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 23:33| 東京 ☀| Comment(0) | 観(あのときはこうおもっていたようだ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月27日

停電の夜の手術室にて。

rahiri.jpg

ジュンパ・ラヒリさんというインド系アメリカ人作家の短編集『停電の夜に』を、この2カ月くらいをかけて、とぎれとぎれに読んでいる。
内容は決してつまらなくはないのだけれど、一気に飲み干すような読み方ができない類の作品で、ひとつの話を読んでは何日か休み、途中でほかの本もはさんで、ちょっと映画でも観て、とそんなことをしているうちに、すべての作品を読むまでにかなりの期間を要していて、まだあと2本、未読の作品を残している。

私はよほど合わない作家の本を無理に読むのでもない限り、読書にそういう時間のかけ方はしない方なので、「ふしぎだなぁ、時間かかるなぁ」とこの本を読みながら首をひねっていた。

さいきん人と話していて、ふと思い出して自分のおすすめ本として『停電の夜に』を挙げたときに、その面白さを言葉にするのが妙にむずかしくて、そのうまく言えないもどかしさが再び「この本ってふしぎだなぁ」という感覚を呼び起こして、いまこうやって文章にして考えている。

どうしてこの小説は、読みすすむのにこんなに時間がかかるのだろう。
ほかの人はどうか知らないのだけれど、少なくとも私はとても時間がかかる。ひとつの作品を読んだら、しばらく次の作品を読む気が起こらない。
そしてその理由は、ラヒリさんの小説の「言いたいことのなさ」に由来するものなのだろうと、何となくそんな気がしている。

彼女の小説を読んでいると、誰かの記憶を撮影したスナップ写真を見せられているような、そんな気分になる。
『停電の夜に』の作品はどれも、悲しみにくれることができない種類の悲しさだとか、不幸だと嘆くにはあまりにありふれている出来事の苦さを描き、極めてドライに人生の片鱗を描写している。
そして、そのフレームの中に作者自身はいない。外側からレンズを覗き、淡々とシャッターを押し続ける。その一連のしぐさこそが、彼女の作品の独特の手触りを作り出している。

そして、それらの手触りは限りなく読者である自分自身が生きている人生の手触りにちかく、似すぎていて、小説によって別世界を体験しているというよりは、「今いる自分の居場所からどんなに隔たっても、たとえ違う人間になったとしても、今の自分が味わうのとそう変わらない、同じ種類の人生しかないのだ」という夢のない事実を告げられているようでもある。

もちろんこの作者は、作品の中にそういうダイレクトな言葉を用いているわけではない。
けれども、人の人生に否応なく紛れ込んでしまう「かたづけようのないもの」「できればそっと見て見ぬふりをしてしまいたいもの」を淡々と描き、そこにそれがあるのだと示す。そういうこと自体が、もう十分なメッセージとして機能している。
そしてその語り口は一見するとマイルドで優しい調度品のようだが、手で触れてみたときに、それが思いがけずひやりとした素材でできていることに愕然とする。

だからジュンパ・ラヒリさんの小説のページをぱらぱらとめくってみると、そこに待っているものは単純な読書というほど生やさしいものではない。
そこにあるのは、自分自身の人生の追体験であり、あるいはまだ味わっていない不幸や侘しさの予告編である。

だから私は、そんなものを次々と読み進められはしなかったのだ。
そして、時間をかけてゆっくり咀嚼しなければ「もたない」という思いにも自然となるのだろう。
ジュンパ・ラヒリさんの描いているのは、作者の人生でもなければ、架空の誰かの人生でもない。読者である私の人生、それそのものなのだから。
それを他人事として読んで楽しみたい気持ちと、読みながら、読み終わった後の苦々しい実感と。
その行ったり来たりを許される場所を作り出す上手さが、彼女の小説の魅力なのだと思う。
そして彼女の作品をたまらない気持ちで読み進んでいるとき。
部分麻酔の手術を受けているみたいだ。
ふと、私はそんなことを思ったりもする。
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 16:47| 東京 ☀| Comment(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

苦い三日月の真下、ポランスキーによる『赤い航路』

51Q5qpV78nL.jpg

ベルトルッチ監督『ラスト・タンゴ・イン・パリ』とポランスキー監督『赤い航路』を日替わりで鑑賞。

両作品に共通するのは、一組の男女が「凝縮された性の営み」を閉塞した日常からの逃避の場、あるいは刹那的に生の実感を得る手段として用いるうちに、肉体関係の停滞ばかりでなく、2人の人間としての関係性自体が摩耗した、輝きのないものへと老け込んでいく過程が描かれていることだ。

その過程をベルトルッチもポランスキーも容赦なく、赤裸々に、シニカルに描いている。うっとり酔える官能の世界を期待して観ると、その部分は見事に裏切られる。

しかし、両作品によって味わうこの「裏切られ感」は、現実生活にも地続きである。
実人生で色恋に裏切られるということはままあり、(失速、幻滅、倦怠、不信、エトセトラエトセトラ・・・)それとなかなかの接近度で肉薄しているという点において、両作品は自分という小さな世界を超えたスケールで見事な色恋の模型を完成し、その機能や内部構造、老朽化のサインなどをおしげもなく披露している。

恋が老いさらばえて愛に変わるのではない、ということ。
自分の欠落した部分を恋の相手が埋め合わせてくれるはずという強烈な期待感を愛と誤解することで始まる不幸。

個人的にはポランスキー監督の『赤い航路』において、ベルトルッチ監督の荒削りな企みとテーマは洗練と完成をみたように思うが、両者ともありふれた色恋の正体を暴きながら、けれどそこに一抹の美しさを添えることで、不思議な感動とともに生きることの味わいを教えてくれるという点において素晴らしい。

※『赤い航路』のヒュー・グラントはサブ・ストーリーテラーとして見事に主役の二人を引き立てている。
単純で御しやすく、だからこそ愛に飲まれようのない、ある意味ハッピーな人間の典型として配置されていて、ひじょうに心憎いキャスティングだ。
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 16:07| 東京 ☀| Comment(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする