2012年02月23日

いつか指先の無欲

いろいろと物憂い事柄に目がいってしまう時節だ.
知らず宵の口になると空を見る.
木星と金星が南の空に架かっている.
つぶっとした光がどこか信じられない.

慰めが欲しくて友人にすがる.
何を考えているか分からない男だけに,
その口から放たれる言葉の質量というのもまた分からない.
食事の約束だけをして,またひとり地下にもぐる.

子供のときから家にいた獣が死んでもう5年たつ.
いまだにその可哀そうな亡骸を思い出すと,
何かとめどない感情がこみあげてきてやりきれない.
こちらとは違う時の流れ様を,越えられぬ河のように
その肉体に抱いたまま,燃えて小さなかけらだけになってしまった.
まだ5年しかたっていない.

小説を書きながら,虚栄心について考える.
日常とは別に不必要な言葉を並べるという行為は,どこか虚栄心に支えられているらしい.少なくとも自分の場合を考えるとそうだ.
そんなものとはまったく縁のない場所で何かを生み出せるという人がいるならば,それはきっと神様だろう.私は神様にはなれそうにない.

自らを職人と呼んだ彫刻家の佐藤忠良のことばを本で読む.
指先が拍手を欲しがって動いてしまう,そうなってはいけない.そんなことを喋っていた.彼が職人と自称したこと.そこには嫌味な謙遜も,ひねくれた自己顕示も一切なかった.
そんな風に日々を生きられれば,少し違う景色が見えるのかもしれない.
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 17:18| 東京 ☁| Comment(0) | 心中(いつかはきえてゆくものたち) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月07日

be my see more,love franny

さぼう.jpg

サリンジャーがこの世を去り、
15年ぶりに「ライ麦畑でつかまえて」を
読もうと自然に思い立って、
だから書店へと急ぐ。

村上春樹氏の訳である
「The Catcher in the Rye」のほうではなく、
あえて当時読んだ野崎孝氏による訳書のほうを手に取り、
懐かしい表紙(象牙色とサファイアの青色とのツートン・カラー)
を眺めると、
どうもお久しぶり、とか、いろいろありがとう、
とか、でもまだぜんぜん、ぜんぜんぜんぜん、
とか、ひとくちに言えない、とりとめのないつぶやきごとで
口の中が満ちて考えの道筋を乱していて、
ページをめくってもなかなか、足跡になってしまった
言葉を飲み込みゆけずにしばらくを過ごす。

ドストエフスキーとかサマセット・モーム、
夏目漱石や森鴎外の本を読むときは、
主去って久しい城をそぞろ歩くようにむしろ心は晴れやかで、
その歴史や時の隔たりがかえって城の偉大さをずしと
重みに変えてビカと光らせうならせる、
それが常なのだけれども。

現在進行形の王国が、
たとえその全盛の時代を離れて
鎧脱ぎ静かに沈黙していたにせよ
ある日レコードが終わるように
鳴りやんで、ぽつりとも音がしなくなってしまう、
その無音のさびしさ。
物語は今なお丘の上にはためいて高らかに、
けれど鳥は鳴き、けれど風は吠え、
太陽がのぼりまたいちいちと海の向こうに
落ちていくことの何とも言えぬ寂しさ。

作品を受け取って、語り継ぐ、
その単純極まりない
読者としてのしぐさを持って、
J.D.サリンジャー氏への敬愛と
哀悼の意に変えたいと思う。

posted by 2/5、地図書きのゆみ at 21:28| 東京 ☀| 心中(いつかはきえてゆくものたち) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月05日

そしてそしてそして、その模様

kaii.jpg

あらゆることには原因が根を張り、
あらゆることの先々には結果の果実がぶらさがっているわけだが、
その間をつなぐ幹の部分、枝葉の部分というのを生きるのに
精一杯なので日常は、重たく揺れる熟した実を大地に向かって
引きつける見えない力のことなどまるで思いもせずに人は、
季節の終わりや移ろう様に心奪われ、
奪われる以上にまた何かを恵まれて人は、
やって来る別の季節を生き、生きてゆけるのだろうか。

たとえば輪廻というものがあるとして、
その輪をつなぐものは、そして、そして、そして。
そして人は死に、そして人は生まれ、そして人は生きる。
そしてという橋がかかり、ここはむこうに。いまはいつかに。
転がってゆく転がってゆく生と死とその間の形なきものたち。
回り続けることではじめて、意味をなすその美しき模様。
けれど、ひとつひとつの瞬間を切り取ればそれは、
ときに哀しく、ときに切なく、ときに幸福で、得がたい、
わたしには作られぬ何かであることには間違いない。

どこに根が伸び、どこに実をつけているのか
見当すらつかない長い長い永遠のような直線上のある一地点。
短く目印を刻みながらほんの少しだけその直線の一部を知って、
自分もやがて「そして」にたどり着く日がやってくる。

そしてそしてそして。

その先に、そしての先に続ける言葉を
そしてわたしは誰かに託すのだろう。






posted by 2/5、地図書きのゆみ at 23:52| 東京 🌁 | TrackBack(0) | 心中(いつかはきえてゆくものたち) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月20日

あなたこそが美しき、この世界の最果て

brainwash.jpg

「遠い国は

おぼろだが

宇宙は鼻の先」

谷川俊太郎の詩「そして」の一節である。

人間の小さな鼻の頭のすぐ先から
広大な宇宙がひろがっているという
この画期的なアイディアが好きだ。

この発想の根底には、
自分のいる地球があって、
その外側に宇宙があるのだという
あたりまえの空間認識を超えた
「自分以外全部宇宙」
いや、もっと言えば
「自分もふくめて全部宇宙」
という
シンプルだが核心をついた洞察がある。

どこかにある「国」と、
ここにいる自分との距離をはかろうとすれば
「遠く」感じることもあるかもしれない。
しかし、
「ここ」も「あそこ」も同じ宇宙だと捉えれば
たちまち距離は消滅する。

「なに」を「どう」おもうか。
この操作によって、人間が認識している万物は自在に変幻する。
そのことが面白い。

「世界の雛形とタイムマシーン制作講座」は
観る人の認識・感覚に新しい回路をひらく実験だ。
そのために
あたまの中で上演される世界という物語を
あたまの外へと運び出す。
ことばというタイムマシーンで。
どこかにいるあなたと共有するために。

「世界の雛形」を作るにあたって、
そのアウトラインをどう引くか、
試行錯誤しては発見をしている。
そして発見は美しい。

空間的に捉えるならば、世界は自分を中心に四方八方へと
際限なく広がっていく終わりのないもののように思える。
しかし、
時間という切り口で捉えるならば
世界の果てはいま現在。
歴史年表を思い浮かべてほしい。
時間が流れるほど、その領土を拡大していく歴史直線。
その一番先端が「いま」である。
この「いま」という地点までしか世界は存在していない。

そして、時間とともに生き、
その存在の内側に生命という砂時計を内包する我々は、
この世界の輪郭線を押し広げていく
世界の最果て、そのものなのである。




posted by 2/5、地図書きのゆみ at 13:42| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 心中(いつかはきえてゆくものたち) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月23日

万物流転に棹差せど棹差せど

hollywood.jpg

夏のきびしさも和らぎ
おかげさまで平らかな心持ちの日々を過ごしています。

炎天の朝もこのごろは、
ギラギラとはげしくなる前のやさしい光線が
人の住むどこもかしこも全体を
ひんやりと美しく照らして始まります。

そんな朝の景色が
壁の向こうでどこまでもどこまでも終わりなく広がっていく
その様子を心で見つめながら
私が布団をしいて横たわっている此処は
終わりなき世界のいったいどのあたりなのだろうと
もやもやと形の定まらない想像でできた地図を
人差し指で音もなくなぞっては遊んでいます。

蛇口をひねり
ただ目が覚めるだけで有難いと手を合わせる
それが出来ることの幸いを
冷たい水を噛みながら味わって過ごすのです。

ものにこだわって、人にこだわって
こころを忙しく動かすことも
溌剌と生きるには必要かとは思いますが、
にぎやかな音、目をつぶすまばゆさを
しばらく休んでみることもまた
生きることにはなくてはならぬのだと思います。

こだわりを無くすることは
なかなかにむずかしく
凡庸で、ややもすると貧弱な心根を
大きいもののように見せようとしては
くじけてしまうことが多いのが
人の常かとも思います。

けれどそれを浅墓であると
誰が笑えるでしょう。
無様でみっともない有り様だと
誰がさげすんだりできるでしょう。
浅墓でない人はおりません。
無様に生きない人もおりません。
生きている人には
ただ愚かな人と
自分の愚かをただ知る凡人と
その二通りしかありません。

待たずとも次の季節はやってまいります。

やがて来る季節を数えると
ただ流されていくことが
なかなか出来ないものなのだと
思い知ります。
何かを残したいと願い、
残したものを知らしめたいと
また欲をかくのが平生なのです。
移ろっていくものへのこだわり、執着が
そのように心に働くのだと思います。

無心に生きて死んでゆくことの
むずかしさを思います。
こだわらぬことに憧れているくせに
気がつくと
こだわりの芽に好んでさし挟まれて
生きていることが大体です。

そのような逡巡をくりかえして
くたびれることも随分ですが、

ただ幸いに思うことは
日々の小さきことごとに
有難きことと合わせる手を、心を
与えられているという
そのことなのです。








posted by 2/5、地図書きのゆみ at 16:13| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 心中(いつかはきえてゆくものたち) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月05日

そこに線を引くことを望みますか?

time.JPG


誰かが

昼 と 夜

その間に区別をつけたがったから、


この町 と あの町

その間に区別をつけたがったから、


わたしが広げたこの地図は

色とりどりで

直線や曲線が

ギザギザと

世界を三角や四角に切り分けて

何本も何本も

走っているのですね。


時間 と 場所

に区別をつけるために


今までも

これからも


氷でできた大陸や

雨風の強い半島の上を

赤や黒や

よくわからない色の点線が

ぽつぽつと

音もたてず

渡っていくのですね。


それと同じように


誰かが

こころ と からだ

その間に区別をつけたがったから、


わたしが

痛いと思ったときに


血が流れる部分と、

血が流れない部分が


わたしの中には

あるのですね。


そしてまた

誰かが


ひとりで見る夢 と みんなで見る夢

その間に区別をつけたがったから、


みんなで見る夢には、

「現実」という名前をつけて

もう片方と間違わないように

不眠症の人たちが

目印にしているのですね。


そしてまた

誰かが


幸せ と 不幸せ

その間に区別をつけたがったから


わたしは

ときどき

悲しくなって

そして

ひとり泣くのですね。


そしてまた

誰かが


わたし と あの人

その間の区別をなくしたがって


だから

わたしは

あの人を愛そうと思ったのですね。


けれど

その2つを区別する線を


誰かが

どんなになくしたがっても


決して

なくしてしまえることは

ないのですね。


誰かが

初めて

区別をなくそうとした

その決意は


いったい


わたしの中の何に

区別をつけるための

直線だったのですか?


国境線も緯度も経度も

こころから

消すことは

たやすいのに


この直線だけは

あまりにも

深く

世界に食い込んでいて

なかなか

なくすことができずにいます。

































posted by 2/5、地図書きのゆみ at 02:08| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 心中(いつかはきえてゆくものたち) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月02日

やがて、薄膜が張る。

kinsi.bmp

街の上を雨が流れ、

人々のささやきと、

黒いアスファルトを打つ雑踏を、

雨の気配が封じ込める。


初恋の相手は、

いまは人のものになってしまった。

新妻は微笑み、

甘辛い料理を、ひとさじずつ、口に運ぶ。

妻になることで、

彼女が手に入れた平穏と、

平穏の上澄みに浮かび上がる、

倦怠感。

両者の区別のつかなくなる様は、

珈琲の中に渦巻く乳性分の紋様に似ている。



彼女が婚姻の継続を決意していること、

いや、その決意を前提としていること、

に、わたしは畏怖の念を抱く。

多くの人がするであろう、

静かで地味な決意に、

感動すら覚える。






posted by 2/5、地図書きのゆみ at 12:51| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 心中(いつかはきえてゆくものたち) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする