2015年01月19日

会長と会長の戦いなのよ大河。

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数年前の大河ドラマ「平清盛」の終盤あたりをDVDで観ている。
この「平清盛」、映像としての見ごたえはもちろん、脚本が上手い。上手いんです。
キャスティングもここにこの人を投入しますか!と憎いくらい見事な布陣を敷いていて、まことに恐れ入ってしまう。
こんなにも見事な作品を作り上げたスタッフ陣はすごいです。すごい。
本当にありがとうNHK!!!

・・・と絶賛してしまうほどのドラマだったはずなのに、リアルタイムで放送していた当時の私は10月くらいで視聴を中止。
ちょうど清盛の人生が一旦落ち着いて、もう平家の地位は盤石だぞーみたいところで観なくなった。
大河ドラマを1月から夢中で観ていて10月でハタと見なくなるというのは何なんだろうと我ながら不思議になって、今回DVDを借りてきた。

タイミング的にも正月だし行くところもないしで、その挫折した10月からの分を見始めたらば、これが面白い。
何が面白いって、もう年取った清盛の迷走ぶりが面白い。
京都から福原(今の神戸)に一週間で遷都せよ、という無茶を強行したり、自分の3歳の孫に譲位しろと若干二十歳の天皇に迫ったり。各地で源氏が挙兵しているという情報が入っても、清盛の関心は新しい都の屏風にどんな絵を描かせるか、とそんな状態。ちょっとでも自分の思うとおりにいかないことがあれば、辺りかまわずヒステリックな八つ当たり。偉いおじいちゃん大暴走状態(笑)。
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そして今回ドラマの終盤部分を観て思ったのは、この「平清盛」は中盤までは清盛の人生の上り坂を平家という武士の一族が覇権を手にいれるまでの道のりと並走して描き、後半では栄華を極めた人間の「老いらく」というものを手加減なしに見せてくれる。その後半の折り返し以降をここまで丁寧に描いていくところが、大河ドラマの中では珍しいよね、ということ。
(と言いつつ、大河のオーソドックスなフォーマットを熟知しているほどには私は大河ウォッチャーではない。あくまで数作品観た感想です)
清盛の「老いらく」の日常と武士という階層を平安時代カースト制度の最上層である殿上人まで押し上げた平家が滅亡へ向かう道のりとが重なっていて、それはそのまま平清盛という人物がいかに巨大なカリスマであったか、を物語ってもいる。

平安時代の頃の行政について、天皇に譲位して上皇または法皇となった元天皇が政治的な実権を握る院政というのが結構当たり前に行われていて、清盛も息子に平家の頭領のポジションは譲っても政治的な実権は握っているし、松田翔太演じる後白河法皇という清盛のライバルも、実際はとっくに天皇に譲位した立場で、でも政治的にはバリバリ現役なんだよね〜という話をドラマを観ていない人間に解説していたら、「ようは社長の座を退いた会長同士のいがみ合いだね」とあっさりまとめられて、ああ確かにそう言われればそうだそうだと妙に納得。

「老獪なるすごろく遊び」として描かれる清盛と後白河法皇の対決の中で、時代的にも貴族政治の形骸化はこんな形で進行していったのだな、武家の台頭というのは必然であったのだな、という腹落ちがあり、大河ならではの1年間というスケジュールでそれらを含む歴史的なグラデーションをじっくり見せていくことに成功している点がやはり素晴らしい。素晴らしいドラマだわ、「平清盛」。

posted by 地図書きのゆみ at 19:27| 東京 ☀| Comment(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月27日

停電の夜の手術室にて。

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ジュンパ・ラヒリさんというインド系アメリカ人作家の短編集『停電の夜に』を、この2カ月くらいをかけて、とぎれとぎれに読んでいる。
内容は決してつまらなくはないのだけれど、一気に飲み干すような読み方ができない類の作品で、ひとつの話を読んでは何日か休み、途中でほかの本もはさんで、ちょっと映画でも観て、とそんなことをしているうちに、すべての作品を読むまでにかなりの期間を要していて、まだあと2本、未読の作品を残している。

私はよほど合わない作家の本を無理に読むのでもない限り、読書にそういう時間のかけ方はしない方なので、「ふしぎだなぁ、時間かかるなぁ」とこの本を読みながら首をひねっていた。

さいきん人と話していて、ふと思い出して自分のおすすめ本として『停電の夜に』を挙げたときに、その面白さを言葉にするのが妙にむずかしくて、そのうまく言えないもどかしさが再び「この本ってふしぎだなぁ」という感覚を呼び起こして、いまこうやって文章にして考えている。

どうしてこの小説は、読みすすむのにこんなに時間がかかるのだろう。
ほかの人はどうか知らないのだけれど、少なくとも私はとても時間がかかる。ひとつの作品を読んだら、しばらく次の作品を読む気が起こらない。
そしてその理由は、ラヒリさんの小説の「言いたいことのなさ」に由来するものなのだろうと、何となくそんな気がしている。

彼女の小説を読んでいると、誰かの記憶を撮影したスナップ写真を見せられているような、そんな気分になる。
『停電の夜に』の作品はどれも、悲しみにくれることができない種類の悲しさだとか、不幸だと嘆くにはあまりにありふれている出来事の苦さを描き、極めてドライに人生の片鱗を描写している。
そして、そのフレームの中に作者自身はいない。外側からレンズを覗き、淡々とシャッターを押し続ける。その一連のしぐさこそが、彼女の作品の独特の手触りを作り出している。

そして、それらの手触りは限りなく読者である自分自身が生きている人生の手触りにちかく、似すぎていて、小説によって別世界を体験しているというよりは、「今いる自分の居場所からどんなに隔たっても、たとえ違う人間になったとしても、今の自分が味わうのとそう変わらない、同じ種類の人生しかないのだ」という夢のない事実を告げられているようでもある。

もちろんこの作者は、作品の中にそういうダイレクトな言葉を用いているわけではない。
けれども、人の人生に否応なく紛れ込んでしまう「かたづけようのないもの」「できればそっと見て見ぬふりをしてしまいたいもの」を淡々と描き、そこにそれがあるのだと示す。そういうこと自体が、もう十分なメッセージとして機能している。
そしてその語り口は一見するとマイルドで優しい調度品のようだが、手で触れてみたときに、それが思いがけずひやりとした素材でできていることに愕然とする。

だからジュンパ・ラヒリさんの小説のページをぱらぱらとめくってみると、そこに待っているものは単純な読書というほど生やさしいものではない。
そこにあるのは、自分自身の人生の追体験であり、あるいはまだ味わっていない不幸や侘しさの予告編である。

だから私は、そんなものを次々と読み進められはしなかったのだ。
そして、時間をかけてゆっくり咀嚼しなければ「もたない」という思いにも自然となるのだろう。
ジュンパ・ラヒリさんの描いているのは、作者の人生でもなければ、架空の誰かの人生でもない。読者である私の人生、それそのものなのだから。
それを他人事として読んで楽しみたい気持ちと、読みながら、読み終わった後の苦々しい実感と。
その行ったり来たりを許される場所を作り出す上手さが、彼女の小説の魅力なのだと思う。
そして彼女の作品をたまらない気持ちで読み進んでいるとき。
部分麻酔の手術を受けているみたいだ。
ふと、私はそんなことを思ったりもする。
posted by 地図書きのゆみ at 16:47| 東京 ☀| Comment(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

苦い三日月の真下、ポランスキーによる『赤い航路』

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ベルトルッチ監督『ラスト・タンゴ・イン・パリ』とポランスキー監督『赤い航路』を日替わりで鑑賞。

両作品に共通するのは、一組の男女が「凝縮された性の営み」を閉塞した日常からの逃避の場、あるいは刹那的に生の実感を得る手段として用いるうちに、肉体関係の停滞ばかりでなく、2人の人間としての関係性自体が摩耗した、輝きのないものへと老け込んでいく過程が描かれていることだ。

その過程をベルトルッチもポランスキーも容赦なく、赤裸々に、シニカルに描いている。うっとり酔える官能の世界を期待して観ると、その部分は見事に裏切られる。

しかし、両作品によって味わうこの「裏切られ感」は、現実生活にも地続きである。
実人生で色恋に裏切られるということはままあり、(失速、幻滅、倦怠、不信、エトセトラエトセトラ・・・)それとなかなかの接近度で肉薄しているという点において、両作品は自分という小さな世界を超えたスケールで見事な色恋の模型を完成し、その機能や内部構造、老朽化のサインなどをおしげもなく披露している。

恋が老いさらばえて愛に変わるのではない、ということ。
自分の欠落した部分を恋の相手が埋め合わせてくれるはずという強烈な期待感を愛と誤解することで始まる不幸。

個人的にはポランスキー監督の『赤い航路』において、ベルトルッチ監督の荒削りな企みとテーマは洗練と完成をみたように思うが、両者ともありふれた色恋の正体を暴きながら、けれどそこに一抹の美しさを添えることで、不思議な感動とともに生きることの味わいを教えてくれるという点において素晴らしい。

※『赤い航路』のヒュー・グラントはサブ・ストーリーテラーとして見事に主役の二人を引き立てている。
単純で御しやすく、だからこそ愛に飲まれようのない、ある意味ハッピーな人間の典型として配置されていて、ひじょうに心憎いキャスティングだ。
posted by 地図書きのゆみ at 16:07| 東京 ☀| Comment(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月17日

かんたんなかんそうを萌の朱雀に

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私の敬愛する映画作家・ペドロ=アルモドバル監督があの円熟味あふれる『オール・アバウト・マイ・マザー』でカンヌ映画祭のパルムドールを逃した1999年の大賞作品を今でもはっきり覚えている。
それは、『ロゼッタ』というドキュメンタリータッチの社会派映画であった。
ゆうべ、長らく敬遠していた河瀬直美監督の出世作である『萌の朱雀』という作品を観ながら、アルモドバルから金獅子賞をかっさらっていったその『ロゼッタ』を渋谷の映画館で観た時の、あの何とも言えない息苦しさがふいによみがえった。

『ロゼッタ』ははじまりから終わりまで、とある異国の少女の日常生活(生活は貧しくトレーラー暮らし、アル中の母親、殺風景で希望の見えない職探しの日々)を二時間近く、じっと見つめるように観客に強いる映画であった。
それは、主人公ロゼッタの苦労をこの苦行によって追体験せよとばかりの、つらくて長い二時間だった。
それでいて、渋谷の街を眼下に望むBunkamuraの「ル・シネマ」の座席で過ごしたその鉛のような二時間が、この上もなく退屈で無意味な行為のために費やされたのだ、とはっきり断言するのを阻むような、強くて透明な圧力に私は黙った。
まったくつまらないものを見せられたぜ、とは中々言い難い空気が劇場にもロビーにも重たく沈殿し、隙間なく漂っていた。

なんとなく予想していたので特にがっかりもしなかったのだけれど、私にとっては『萌の朱雀』もそういう種類の作品であった。
社会的弱者だとか、虐げられた人々だとか、この映画の場合は過疎化が進む田舎に暮す人々。彼らを登場人物に据えることで、映画としてのつまらなさ・退屈さには目をつぶるように。そういう免罪符じみや囁き声が聞こえてくる、ちょっとずるい作品。
河瀬直美さんはこの映画において、田舎に暮らす人たちの暮らしぶりを「いい感じ」に描きながら、本質的には彼らを何ひとつ描いていない。河瀬さん自身は、おそらく彼らのありのままの姿を「捉えている」と思っているのだろうけれど、実際には無自覚に彼らを映画の小道具に貶めているような印象を受ける。
映像は、深い山奥の自然とそこに住む人々を美化し、素朴で簡素な暮らしに共感するにとどまっていて、奥行というものがない。そこにあるのは、ただのイメージだ。田舎というイメージ。そこに住む人々、というバーチャルなイメージ。温度も湿度も匂いもなくて、つるりとした都合のいいイメージだけが延々と連なっている。それが嘘くさくて、人工的で、とても息苦しい。

作り手の想いと実際の仕事とのズレが耳障りなノイズとなって作品全体を覆っている。
それがこの『萌の朱雀』という作品の最大の欠点であるように私は思う。

そんなわけで、作り手が創作という行為の中に本質的に含まれている偽善について盲目である、というのは非常に罪なことであると身につまされるとともに、しかし実際に観てみると漠然と予感していた苦手意識の輪郭がひじょうにクリアに際だって良いね、とも思ってみる。
ゆうべはそんな夜だった。

posted by 地図書きのゆみ at 18:38| 東京 ☀| Comment(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

その愛の名はタナトス、あるいは「戦場のメリークリスマス」


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2013年の初秋に勝手にスタートした大島渚フェスティバルin自宅。
「愛のコリーダ」「御法度」と観てきて、3本目の上映作品は、かの有名な「戦場のメリークリスマス」である。
坂本龍一が手掛けたあのメインテーマ曲は、もう日本人なら誰もが骨身に沁みて耳タコ状態であるというのに、当の映画がどんな内容かをほとんど知らずにいる人も存外多いのではなかろうか。
かく言う私も、デヴィッド・ボウイやビートたけしが戦場を舞台に敵と味方の立場を越えてハートフルな交流を繰り広げる的な、そんな安直でいて鉄板のストーリー展開を予想していた。
たとえば日本人であるたけしに向かってフレンドリーに微笑むデヴィッド・ボウイ。
星空を見上げてニヒルに笑うたけし。
交わす盃。ほとばしる友情。
そこにあの静かに寄り添うような坂本節が流れる。(もちろん感動的)
うわー人間っていいよねー!
友情に国境線なんか引けるわけがないよねー!
戦争をなくすために、みんなでがんばっていかないとねー!
・・・みたいな。

正直そういう何となく「いい話」っぽいものを想像していた。
そして、そこがあんまりこの有名作を観る気にならない大きなポイントでもあった。

しかし、渚はそんなハートフルな人間ではなかった。
もういい加減に分かってきた。
渚はそんなハートフルなんか、とっくの昔に、それこそオシメが取れるよりも、ハイハイを始めるよりもずっと以前に、おそらくサクっとかなぐり捨てて、この世にbornした人なのだろう。
渚は渚になる以前からきっと大した大人だったのだと思う。
だからこそ、大人にしか撮れない映画を撮り、大人じゃなくちゃ味の分からない人間同士のかそけき淡い何事かを描くことができるのだ。
それが大島渚という巨匠。
私が完全になめきって観た「戦場のメリークリスマス」は、そんな渚のまた新しい大人宣言であった。

・・・というわけで、以下は個人的感想の覚書なり。

●これは戦争映画ではない。

「戦場の」というタイトルからも分かるとおり舞台設定は戦地である。
しかしその設定は、戦争そのものを描くために用いられているわけではない。一つの共同体で施行されている常識・ルールが極まった状態、すなわち差異や例外が許容されることなく、個別の人間性を肯定する遊びの部分がどこまでも排除された杓子定規で偏った環境。そのような環境に順応できる人間(ハラ軍曹:ビートたけし)と、順応しきれず葛藤を抱え込んでいる人間(ヨノイ大尉:坂本龍一)という二つの人間像の典型を描出するためのあくまで背景、あくまで舞台装置である。

(戦争映画の定義というのが明確にあるのかは知らない。知らないけれど、戦争という状況がほかの要素と置き換え可能である時点で、本作を戦争と分かちがたく結びついた、いわゆる「戦争映画」とするのは適当ではないように私は思う)

●2組のカップルの間の必然的な差異。

捕虜であるロレンス、そして彼ら捕虜たちを監視するハラ軍曹(ビートたけし)。この2人の間の友情めいたコミュニケ―ション。
ヨノイ大尉(坂本龍一)と彼が目をかけるジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)の関係性。

この2つは、2組のタイプの違うカップル(同じ資質を持つ者同士の組み合わせ、あるいは異なる性質を持つが故に組み合わさることが不可欠な両者)として捉えることができる。
ロレンス=ハラのカップルは国籍や価値観といった個人を支えるバックボーンこそ異なるものの、非常に現実的な生命力に満ち満ちているという点で似たもの同士だ。

戦時下で敵国の捕虜となっても希望や自尊心を失わないロレンス。
軍隊式の規律の中で何の疑問を抱くこともなく自分の職務を淡々とこなし、ともすると活き活きとしているハラ軍曹。
2人が会話するとき、彼らの立場の違いは限りなく透明になり、そこには息の合った長年のコンビのような居心地の良さが醸し出される。

対するヨノイ(坂本龍一)=セリアズ(デヴィッド・ボウイ)の関係は、もう少し複雑である。彼らは紛れもなくカップル(同じ資質を持つ者同士の組み合わせ)でありながら、片方がもう片方を追いかけるような構図の中に落とし込まれている。

ヨノイ大尉は軍事裁判にかけられたセリアズを助けて自分の監視下に捕虜の一人として置くことになる。そこにはヨノイの恋心とも崇拝とも取れるセリアズへの激しい想いがある。理想主義者であるヨノイは、戦地での鈍磨な人間関係や自分自身の理想の挫折に倦んでいる。一筋の光を、彼はセリアズに見出したのかもしれないし、またはセリアズの登場でヨノイの中にあった同性愛的な感情が発現したのかもしれない。そこはいかようにもとれるし、すべてが混沌と混ざり合ってひとつの想いをかたどっているような印象も受ける。

対するセリアズは彼自身の人生や希望をすべて過去に置き去りに戦地へやってきた人間である。作品の後半に挿入されるセリアズの回想シーンで、彼が戦地でどんな功績を上げようとも現在にも未来にも希望を持ちえないことが語られる。

ヨノイ=セリアズのカップルは、周囲の環境と自身の内面とのずれに苦しんでいるという点において大きな共通点を持っている。そしてセリアズが「希望を持たない」という方法である種の達観を得ている点が、いまだ葛藤の渦中にあるヨノイを強く引き付ける。
(この点においてヨノイ=セリアズの組は、異なる性質を持つが故に組み合わさることが不可欠な両者、という性質をも持ち合わせている)

●タナトスとの恋、不可能を孕む。

ロレンス=ハラの二人には、終戦後にハラの処刑という結末が待っている。しかし、彼らの関係がどのような形で終わるにせよ、双方向での想いの交換がなされていたという点でいわば「両想い」であり、彼らは幸福な関係にあったと言えるだろう。

一方、ヨノイ=セリアズの場合は、終戦前にセリアズが捕虜収容所で刑に処され、またヨノイも戦後に処刑されるという運命をたどる。まるで運命までもがヨノイにセリアズの後追いをさせるがごとくの結末である。
しかし、ロレンス=ハラが「両想い」ならば、ヨノイ=セリアズは不幸な「片思い」の関係だったのだろうか。むしろ抗いがたく結びついていたのは、後者ではなかったのか。

物語の終盤。
捕虜収容所の夜の闇の中のシーンは象徴的にいろいろなものを暗示している。

地面に首まで埋められて動けない状態のまま、目を閉じ、無残な姿で衰弱し、死にかけているセリアズ。
そのセリアズのもとに忍んできて静かに近づき、彼の髪をひと房落とすと、それを形見として大切にしまいこむヨノイ。
まるで想い人を死という檻の中に閉じ込めることで、ようやく手を触れることができたような、ヨノイの不器用さと切実な想いが痛々しいシーンだ。

もしかしたら初めからヨノイは死人に想いを寄せていたのではないか。
このシーンを思い返すと、そんな考えも湧き上がってくる。
自分の現在も未来も、新しく創出される人生には何の価値も見いだせず、すべてが過去に作られ、過去に終わっていると感じているセリアズ。その精神は、ヨノイが出会った時はもうすでに死の世界にあったのではないか。
報われない恋にもいくつか種類がある。
ヨノイとセリアズの間にあったのは、生きていこうとあがく人間がすでに死んでいる人間に呼びかけるような、そんな関係だ。
「片思い」とさえ呼ぶのがはばかれる彼ら2人の結びつきは、そういう初めから不可能な関係であったように思う。
それが幸福か不幸かなどということを、この監督はあまり問題にしちゃいない。
ただ「こんな関係もあるのだよ」と耳元でそっと囁かれたような気持ちで、私はこの映画を観終わったのだった。

昨年末にDVD化された「戦場のメリークリスマス」。
なにゆえ今までVHSのみだったのだろう。。。
そしてフェスティバルは続く。

追記:これを書いてから数か月ののち。本作は「戦争という新しいステージを与えられたことで、かろうじて生き延びることができた人間もいたのだ」ということなんかも描いていますね、なんてことを人と話した。
posted by 地図書きのゆみ at 14:25| 東京 ☀| Comment(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

「わたし」の不在と彼の「地点」

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地点第17回公演
「あたしちゃん、行く先を言って」
を見た。

地点の作品は演出がかなりパフォーマンス寄りで、
戯曲をもとに作られてはいるが
そこから生み出されるのは物語ではなく
ひとつの音楽であり、風景である、
といってもいいかもしれない。

毎回作品において特徴的なのは、
役者がセリフを言うときに
セリフの内容とは関係なく、
その文節が不自然な区切れ方をしていたり、
言葉が引き伸ばされたり、
いっさい棒読みになったり、
抑揚も声量もそこに乗せられる感情までもが、
意図的にセリフの内容と引き離され、
いかにも「不自然」にコントロールされている
その独特の発話法である。

この手法によって舞台上の言葉は,
セリフの意味やセリフによって導き出されるはずの世界観、
を伝える機能をいちじるしく奪われ,
意味を漂白された音の連なりとなって、
我々がふだん使う言葉とはまた別の存在感を持ち始める。

同じ意図は作品全体の演出にも徹底して貫かれていて、
たとえば,何かセリフの中にあるキーワード、によって
いやがおうにも具体的な物語、あるいはそれを連想させる関係性
が生じようとするとき、
それを次の瞬間には溶かすようにして
場面は操作され、物語になりかかったものはたちまち抽象化される。
舞台上で、役者の言葉や演技が抱え込んでいるはずの
なんらかの意味ある情報を無価値化してしまうのだ。

そのためにたびたび繰り返されるのは、
役者がお互いのセリフをシャッフルしたり、
発声練習がごとくセリフを極端な抑揚で試し読む行為だ。
あるいは、漠然としていながら極めて丁寧に行われる
抽象的な動き、無目的化された身体の運動。

それらは、セリフや行為が特定の誰かのものではない
ということ、舞台上の役者の誰一人として、
そこで話される言葉の内容に決して寄り添ってはいないのだ
ということを明示する。

物語が展開していくのを見せる芝居を観るときに
我々が当たり前に想定するような
お話の中の登場人物たち。
それすらもまた、地点の舞台には不在なのである。

役者は音を出す装置であり、
感情を演じてみせる機械である。
音や、動きといった結果はあるのにもかかわらず、
主体となる「人間」だけがいない、という不在感。

その不在感が、
どんな熱演よりも「言葉を口に出す」
という行為の不可思議さを観客に差し出し、
演じる対象を取り去ったときに初めて見えてくる
「演じる」行為そのものの姿を浮き彫りにして見せてくる。

抽象性の高い演出に加えて、
モチーフとなった戯曲がコラージュ的であり、
さらにそこに同作者の他の著作からも
引用した作品づくりをしているとかで、
面白い部分と、冗長な、つまらない部分とが混ざっているようにも思えた。

しかし、こうして作品を振り返って
何を見たのかを言葉にしようと考えるときに、
面白さもつまらなさも同様に作品の一部として
仕組まれていたのではないかと、
改めてそんな風にも感じる。

地点
http://www.chiten.org/
posted by 地図書きのゆみ at 21:41| 東京 🌁| 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月19日

錯覚作家と「地上」の模型

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鎌倉で開催中の内藤礼の個展
「すべて動物は,
世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」
に行ってきた.

鎌倉近代美術館は,一階と二階とそして吹き抜けの中庭.
また建物自体は鶴岡八幡宮の敷地内にあり,源氏池の水上に
浮かぶような格好で佇んでいて優雅だ.


内藤礼の作品にはいつも驚きがある.


ビーズを連ねた糸を水に変えたり,

源氏池を瓶の中に瞬間移動させたり,

作品をお客さんに配って持ち帰らせたりする.

そしてすべての場所において,
あるようでないと思われたものが,そこにあったりする.

一見すると素朴なオブジェを陳列・展示しただけにも思える
空間は,実は緻密な計算と明確な意図をもって構成されており,
その空間の中に含まれている自分をも含めて
ひとつの作品として機能していることを体感できる
見事な仕掛けになっているのだ.

そういう点では
内藤礼の作品は,とっつきやすいと思う.
とっつきやすいというか,答えがちゃんとあるというか.
現代アートというと,
何がいいのかよくわからない抽象的なフォルムの物体が
置いてあって,タイトルを見ると「生命」とか書いてあって
分かったようなわからぬような,でも何となく「これがこの
作家にとっての生命の形なのね」みたいな風に自分を
納得させて行き過ぎている方にはぜひおすすめしたい作家の
ひとりだ.

現代美術といえば,
わたしはオノ・ヨーコの作品が昔から好きなのだけれど,
彼女がイマジネーションを材料に,
観客の頭の中に作品を作るという手法をたびたび
用いるのに対して,
内藤礼は,
彼女が,あるいは観客がイメージ上のものとして
頭の中しか描けないものを,肉眼で見ることができる形
に変換して提示してみせる(そのように錯覚させる)
という点において,
オノ作品と合わせ鏡のようでなかなか面白いと思う.

そしてまた,オノ作品が観る人の想像力を信頼しているのと
同様に,内藤作品は人間の感じて受容する力を
作品の仕組みを支える大きな軸に据えている.
そのことが,観客の感性という半ば漠然としたものを,
作品の一部として(あるいはまた作品の「結果」として),
動きのひとつに取り込んだダイナミックなインスレーションを
成立させているのだと思う.

内藤礼
「すべて動物は,
世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」
2010年1月24日まで
神奈川県立近代美術館 鎌倉にて.
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2009/naito/index.html
posted by 地図書きのゆみ at 12:03| 東京 ☀| 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月05日

彼は形なきどうかどうかの結晶家

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10代の終わりにわたしが住んでいた町には、春になると梅が若い女の人の唇のようにぷくぷく濃い紅色に膨らむゆるい丘があって、丘のふもとの森の中には木と木のすき間にすっぽりと埋めこまれた白っぽい箱型の小さな図書館が、のんのんといつも月が光りはじめるような夜おそくのじこくまで本の貸し出しを行なっていたのであった。

わたしはよくその丘のてっぺんまでをうねうねと歩き、つまりは目的地もないくせに意味もなく林の小道を蛇行しては「これぞ迂回!」などと天に叫んだりしていたのであるが、最終的にはいつもこの木々に埋まった図書館へとたどり着いてそこで本を漁っていたのだから、やはり散策は迂回で目的は探書だったのだろうか。

木の中の図書館の中は中で、どこかにうさうさと生えていた木たちがさらわれてきて洗われたりくだかれたり、たくさんたくさんうすーく引き伸ばされて裁断されて製本されて本と呼ばれて法と秩序のもとにだだだとならべられてせいりせいとんされてずしりとしているわけだが、そう考えたら東山さんの絵に描かれる木との出会いというのは木の中での木との出会いだったのであるし、木に呼ばれたのかもしれないあのときのじぶんは、なんてことを今思う。

どこか異国の空とその空に頭をあずけている街の姿が描かれたいちまいの絵をわたしははっけんし。それから木と木と木と木とが重なってひとつの塊となっている絵をわたしははっけんし。ぬくもる丘のおんど、そのおんどそのものを描いた絵をわたしははっけんした。

どうしてか、東山さんの絵をみるもうずっと前から自分の中にあった風景のようにも思える感覚がなつかしくしかしはっけんには違いなく、その理由をずっとかんがえていたけれど、東山さんの描くものは景色は景色でも本当は目に見えない心の中の景色で、思いだとか祈りだとか形にならぬものたち、たとえばこんだけ今じぶんはこういうことをおもってこういうきもちでいるのだ、というような精神的なものを絵という物質の世界で結晶化させているのだ、だからそれを物質の目でみるとじぶんの心のなかのどこかの景色が自分のそとがわに立ち現れてそれとじぶんとが出逢っているようでなつかしい気持ちとずっと逢いたくて逢えなかった人に逢えたようなそんな気持ちとその両方になるのだというようなことをいま思う。

たくさんの木やたくさんの水やたくさんの光やたくさんの音やたくさんの「ああ」やたくさんの「そうか」やたくさんの「どうかどうか」や。あるのに目にみえないものを目に見える形にあつらえて座らせたものが東山さんの絵である。かたちなきものが目の前にすがたをあらわしたかんどうはそれはそうなのだが、かたちにならないのだと自分があきらめていたものがこんなふうにして、目でたしかめあじわいだきしめることができる、そしてそれがじぶんのではない誰かのかたちなき代物であることがこころから素晴らしいのことだということを東山さんの絵でわたしは知った。

「生誕100年 東山魁夷展」
東京国立近代美術館 3月29日〜5月18日
http://www.momat.go.jp/Honkan/Higashiyama2008/index.html




posted by 地図書きのゆみ at 17:28| 東京 ☀ | TrackBack(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月07日

巨大な青手と赤色袖なし女

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フィリップ・ジャンティ・カンパニー
「世界の涯て〜Lands End〜」を観てきた。

フィリップ・ジャンティ・カンパニーは、
ダンス、パントマイム、マジック、日本の文楽を取り入れた人形遣いなど、
さまざまな「道具」を用いて独創的なイメージの視覚化をはかるパフォーマンス集団である。

そぞろ歩きで見かけた公演ポスターがあまりにも素敵だったので、
思わず劇場に飛び込んで着席。

手紙を手にした一人の男がスーツケース片手に、
世界のどこかで手紙を読んでいる一人の女を探しに行く。
そんな漠然としたシチュエーションがまず最初に提示される。

手紙が運ばれる軌跡が、
世界のこちら側とあちら側を、一本の線で結んでいる。

ざっくりしたイメージがより糸となって、
心象風景的なシーンをつないでいく構成。

セリフも明確な筋書きもなく、
動きと音楽だけで展開していくので
よっぽど面白くないと退屈してしまうなぁと思いつつ、
(じっさい疲れていたこともあり、途中ちょっと眠ってしまったが)
舞台の魔術師と謳われている集団だけあって、
思わず釘付けになってしまうような仕掛けもいくつか見られた。

赤く光る小さなお弁当箱たちが、
おもちゃの兵隊のようにステージの上をチョコマカ動き回ったり
大男が突然床に溶けたり、ハサミでできた下半身を持つ巨大少女が
いたいけな少年を追いかけ回したり。

lands.jpg

青い手と赤いドレスの娘がたわむれる場面。
何がしたいのか、どこに向かっていくのか、
シーンとしては中途半端で緊張感に欠けたのだけれど、
絵として見たら非常にシュールで不気味で美しく、印象に残った。
こんな風にしてスタンプのように心に押し残される幾つかの光景こそが、
フィリップの描く「世界の涯て」からの眺めかもしれないと思ったりした。

観終わって感じたのは、
とてもむずかしいことに挑戦しているなぁということ。

ひとつには、ないものを在らしめることへの挑戦であり、
ひとつには、その手法が即物的というか、
現実にはないものを現実世界の品物で全部作ってしまう感じが凄いなぁと。

幕が下りるまで、
それが作品として理想的な精度を保って完成するかわからない。
そんなリスキーな代物がザ・上演芸術であるのだが、
特に今回の公演のように、幻想的なイメージを出現させる試みは
作り手にとっては非常にハードだ。
何かをしくじって観客の夢を醒ますようなことは許されないし、
客席のくしゃみ1つで、
必死に作りあげた夢の城がたちまち崩壊してしまうこともある。

そしてまた、
夢を見ているように感じられる作品はつくれても、
夢そのものを上演することは本来不可能だ。

それにも関わらず、フィリップ・ジャンティはその不可能に
非常に原始的なやり方で挑んでいる。
つまりさっきも述べた、「全部現実に存在するもので置き換えて」
夢そのものを上演するというやり方だ。

本当だったら、現実世界でイメージをすべて律儀に具現化するよりも
お客さんの想像力に頼ったほうが手っ取り早い。
頭の中にあるイメージを描くのに一番ふさわしいキャンバスは、
やはり誰かの頭の中なのだから。
ことばと想像力をうまく使えば、
どんな絵空事でも自由に描いて楽しむことができる。
その上そこに描かれた風景は、色がにじむことも、ノイズが入ることもない。

だからふつうは、その脳内キャンバスと頭の外の画面をうまい具合で
使い分けながら、そこにはない世界を描くものだが、
フィリップ・ジャンティの場合は、
観客の想像力をある意味まったくあてにしていない、
とでも言ったらいいだろうか。

作り手のイマジネーションを、全て作り手側の持ち物で代用して、
劇場という空間に再現しようとしている。
そこに観客の想像の入りこむ余地はない。
ただ目の前に用意された出来事を目撃するのみだ。
それを解釈することさえも、拒絶されているように感じる。

一方的に進行する一連の流れを、眺めているしかない不自由。

この仕組みこそがまさに、夢を見るという体験そのものである。

おそらく強いメッセージ性などはないのにも関わらず、
見終わった後に強く圧倒された感触が残るのは、
この構造によるところが大きいのではないかと思った。






posted by 地図書きのゆみ at 00:23| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月07日

三つの「融点」にて逡巡す

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初台オペラシティ・アートギャラリーにて開催中の
「Melting Point」を観て来た。

〜「Melting Point」とは、『融点』を意味する言葉で、
固体が融解し、液化する温度であるとともに
固体と液体が共存する瞬間でもある。
異なるものが同時に存在する場所であり、作品が空間や人に
作用し、変化していく様子を象徴的に表しています。〜

(展覧会イントロダクションより引用)

『融点』という言葉に惹かれて足を運んだオペラシティ。
内容的にも特定の場所・時間に装置を設置して空間を
異化するインスタレーション作品が見られるということで
なかなかに興味をそそった。

会場には、
ジム・ランビー、渋谷清道、エルネスト・ネトという三名の
作家の作品が展示されており、それぞれ独自の世界観を呈して
いる。

七色のストライプ模様が床を走り、
砕いた鏡を全面に貼り付けた椅子が中空に浮かぶジム・ランビーの部屋。
幾何学的迷路のように走る直線の上を脈絡もなく歩き、
点在する巨大な鍵穴だとか自立する杖だとかという象徴的なモチーフを鑑賞する。

続いて、アンデルセンの童話「人魚姫」をモチーフにした渋谷清道作品。
『泡』を連想させる白亜の空間が広がり、
レース刺繍のような装飾を施した天窓を見上げるための
柔らかな座敷牢へと鑑賞者を誘う。
靴を脱いで、ふかふかとした質感の床を歩き、秘密の小部屋への
入り口をくぐると、既に他の来場者が仰向けにごろごろと横たわり、
天井を見上げている。それに倣って自分も寝そべってしばしの時間
ぼんやりと天井を見上げる。見上げているうちに、
この場所に自分が閉じ込められているのか、
隠れているのか、その区別がよく分からなくなってくる。

再び靴を履き、靴紐を結んで辿り着いたのは、
バレエのレッスン場のような殺風景でガラリとした空間。
そこはエルネスト・ネトの部屋。
その空間は箱を上下に2分割するように薄い皮膜が張られている。
膜にはモグラ叩きのように顔を出すための穴が幾つも開いており、
鑑賞者は出口へと向かって上体を低くし膜の下を進む。
時折穴から顔を出し、
別の穴から頭を出している人間との距離を膜の寸法で測り、
移動するときには再び腰を折り進んでいくという仕組み。
「距離」が布の寸法として視覚化されていること、
見知らぬ来場者同士がひとつの装置を通じてコミュニケートする
ということ、ある特定の空間で自由な移動を
制限されることによって生じる身体感覚、などなどが体感できる。

見終わって、三人の作品はそれぞれに個性的ではあった。
しかし、同時に結構頑張らないと楽しめない展示だったなぁという
感想も抱いた。

わたしが現代美術、とくにインスタレーション作品などについて
残念に思うのは、作品の意味や楽しみ方というのが作り手の側で
完結してしまっていて、鑑賞者に共有されずに終わるケースが
非常に多いという点だ。
今回もまさしくそのケースだった。
たとえば、渋谷清道作品にしても、モチーフとなっている
のが「人魚姫」だとか「泡」だとかそういうことは
ガイドブック的なものを読んで初めて分かったことで、
それを知っているのと知らないのとでは
明らかに作品がもたらす印象は違ってくるし、
もっと言えば作品の装置としての機能しどころが
意図するところと全然違うものになってしまう。
もしそうした解説や予備知識なしにでも
鑑賞できるのが作品の力だというのであれば、
今回の展示作品について言えば、非常に片手落ちであったように思う。
つまり、何の予備知識もなしに見ていると「ふーん」という
感想しか持てない。何かをやろうとしているのだろうけど
それが何かはよくわからないし、造形的な美しさだけを
鑑賞するとしたらいかにも物足りない。
『融点』というコンセプトに届く要素は多分にありながら
それが昇華されていないというのが率直な印象である。

芸術と呼ばれているものは、
もちろん感性だけで付き合えるものもたくさんある。
しかし、予備知識や説明なしにはその作品が言わんとするところ
が十分に伝わらないものも多い。
それなのに「これはアートです」というレッテルだけで
作品を崇めたり、本当は何がいいのかさっぱり分からないものに
対して「これをわからないと言うのは格好悪い」などと、
とりあえず分かった顔で賞賛するというのはナンセンスだ。

難解な作品を見て「意味がわからない」というのは
実にまっとうな感想だし、本来別の意図があるにも関わらず
鑑賞者に「わからない」と感じさせてしまうのは
作者の力不足・説明不足だと私は思う。

言葉の力を借りずに展示物だけで何がしかのインスピレーションを
与えられるものもあるとは思うのだが、
扱っているモチーフやテーマが煩雑であったり、
明らかに「こう解釈してほしい」という方向性がある場合は
それを提示することも必要なのではないだろうか。
その先で鑑賞者が何を感じるかは勿論自由だし、
操作できないのだから。

少し乱暴な例えかもしれないが、
抽象芸術作品というのは未開封の缶詰に似ている。
缶詰は缶切りで開けて中身を味わって初めてその旨さが分かる。
それにも関わらず、鑑賞者の多くは缶切りを持たず
または手にした道具の使い方を知らず、
缶詰の外側に印刷されたおいしそうな絵柄を眺めて
食べた気になって満足している。
識者だけがその中身の味を楽しんでいる。
そんな印象がある。

現代美術の抽象表現の多くは造形美を離れて、
意味を作品に乗せたところで勝負していると思う。
だからこそ、その意味をトランスレーションする
装置を作品の中にでも外にでも常備しておくことは
不可欠なのではないだろうか。
それが野暮ったく感じられることも重々承知で
尚もその必要性を私は強く訴えたい。

解釈や説明が加わると途端に輝き始めるのだろうな
というのが今回の展示の感想であった。











posted by 地図書きのゆみ at 03:16| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月18日

めくるめくろじめぐり

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MACHI-YATAI PROJECT2007の会場である
谷中の玉林寺へと赴く。

MACHI-YATAI PROJECTとは、
台東区のまちの一画に仮設の空間や装置を配置し、
日常の風景を一変させるというプロジェクト。

今回は、
谷中玉林寺境内の脇の、狭く細長い路地を舞台に、
「精神的浄化」をテーマに空間をつくるという試み。

谷中の町から玉林寺参道までを「コチラ=この世」
路地奥の空地を「アチラ=あの世」
中間の路地を「浄化の場」と想定し、
来場者は、それぞれの空間を仕切る暖簾(のれん)
をくぐりながら、浄化のプロセスをたどっていくという仕組み。

会場は全体で数百メートルの短い路地。
全体で六つのセクションに分かれており、
それぞれの場所で浄化にいたるための「業」を行なう。

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まあ「業」といっても、
もちろん焼けた炭の上を裸足で歩く的な
そんな荒々しいものではない。残念ながら。
受付で渡される手ぬぐいに結ばれていた赤い紐を
木の柱に結ぶ「布施(施し)」だとか

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座面が鏡になったベンチを覗き込み、
眼下に伸びる細長い空模様をじっと見据える
「禅定(ぜんじょう)」など。

これは思いを鎮め、
集中力を持って真理を明らかにする坐禅の精神を模した
ものと思われる。

また、真実を見極めるという趣旨では
「智慧(ちえ)」という業もあった。

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路地の真ん中に、
根本を切断された木の胴体が宙に浮いている。
切り株と宙吊りの本体との間には
輪切りになった幹も浮かんでいる。

が、よくよく見れば木は切断されているわけではない。

その木が鏡の帯でぐるりと巻かれているために
本来ならば木の表面として見えるはずの部分に
別の景色が映りこんで、
木の姿が「表面上」切断されているのだ。
その仕掛けの作る「見た目の景色」に惑わされずに、
木の姿を見極める。

そんな風にして、暖簾をくぐるごとに
日常的な風景を操作することで生まれる
奇妙で新しい世界の姿を発見する。
見慣れた景色を、写真や絵など二次元の世界の中ではなく、
現実において組み替えてしまうという発想が私は好きだ。

路地めぐりの最後にたどり着く場所は
「アチラ=あの世」なわけだが、
そこには「水盤」という装置が設置されており、
素足を浸せる水場になっている。

gyokurin9.jpg

ここで足を清めて、浄化の仕上げというわけだ。

たどり着いた人々に混じって、
天女7人で演奏される雅楽の演奏に耳を澄ませる。
風が吹き、雑木林がリズムなき音楽を奏でる。
身じろぎするたびに音をたてる水面がまた
心地よいアクセントになって老若男女
足湯に調べに心溶かす。


さて。

日常的な空間というのは
それが見知ったものであるという点において
潜在的に「違和」や「発見」を取り出すことが
用意な素材だと言える。
それまでの認識をエイや!とひっくり返す装置を
投入すればよいのだから。
問題はそれを
「いかにやるか」「いかに見せるか」
ということで、
今回は企画の意図と来場者の理解のマッチングという
ところでいうと、なかなか微妙なところだった気もする。
個人的には、
体験する中での理解や発見のほうが面白くて
「業」というコンセプトが少し邪魔だった。
しかし、雅楽の演奏や足湯などの「お楽しみ」要素が
そういった過不足を補って企画全体を底上げしていたため
見終わった後の満足感はじゅうぶんにあったのだけど。

「体験を通じて何かを伝える」というのは
もう本当にハードルが高いことで
感じ方なぞ十人十色と切ってしまうこともできるのだが
やはり作り手の目論んだフィールドで
お客さまに楽しんで欲しいとは切に願うことである。

その困難をわがことと感じつつ、
谷中墓地をぶらぶら抜けて、家路についたのであった。








posted by 地図書きのゆみ at 15:43| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月20日

有機体思考す。

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そんなわけで、昨日の続き。

イサム・ノグチ作品群を、個別にどうこう言うつもりはない。
彼の作品に限ったことではないが、私は純粋芸術を志向して生まれてくる作品というのは、作り手の思考のスケッチであり、創作活動の搾りカスのようなもんだと思っている。
つまり、創作の一番のダイナミズムは、作る過程での作者の思考のうねり、壊すべき既存との戦いそのものであり、それは作った人間その人だけが浴びることを許される、シャワーのごときドラマの連続である。したがって、陳列されている作品は、しょせんは冷めたぬるま湯にすぎない。それでもなお、見ただけでその温度に火傷するくらい余熱がブンブンうなっているもの、それこそ本物だと思う。
たぶん、岡本太郎なんかは、思考を作品に置き換えることでさらに高熱を発するような、そんな魔術的な力を持つ作り手なのだと思う。



話が逸れたが、今回の展示で一番よかったのは、一連の作品の根底に流れているイサム・ノグチ氏の思想が、モエレ沼公園という彼の遺作において、見事に結実していた点である。

人間をはじめ、この地上に生きる全てのものには根っこが生えている。そしてその根は、いうまでもなく地球へと続いている。森羅万象すべては1から生まれ、1に還っていく。

こういった発想が、北海道の広大な土地に一つの作品を生んだ。大地を彫刻し、すなわち地球を彫刻した作品。
この作品は雛形である。
煩雑で無数のエゴから成り立つ人間の営みも、すべては一つの素材をくり抜いて作られた彫刻のようなものだ。雛形によって、そんな漠として思いが音楽のように頭の中に流れ出してくる。

不思議と、自分を卑小にも尊大にも感じることはなかった。
ただ在るがまま、というのはこういう気分だろうか、などと思った。
posted by 地図書きのゆみ at 14:43| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月13日

三ツ目通り闊歩。

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現代美術館へ行く。
稽古やバイトの関係で展覧会から足が遠のいていたが、「イサム・ノグチ展」をやっているらしいので、ひさびさに木場に赴く。

現代美術館の周辺は、街というより通路と呼んだほうがいいくらい味気ない。
殺風景で、人工的な眺めである。
ちょっと未来都市っぽい。
そのくせ、「三ツ目通り」なんて名前の道路が走っていたりする。
他にも、「言問橋」とか「清澄白河」とか、昔話ちっくな、いわくあり気な名称が多い。



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市原悦子の語りが入りそうだ。

「・・・こうして、徳川幕府によって、三つ目一族の末裔はみな、深い川に沈められてしまいました。それからしばらくして、日照りが続き、川の水は見る影もなく干上がってしまいましたが、不思議なことに、三つ目人間たちの死体が川底から見つかることは決してありませんでした。それ以来、干上がった川の跡は、三つ目通りと呼ばれるようになりました。けれど、決して道沿いに人々が居つくことはなく、通りはいつまでも、薄ら寂しいままでしたとさ。」

江戸時代中期に深川一帯に栄えたという三ツ目一族の怨念を、コンクリートで塗りこめた跡なんだろう、ここは。そして、今も復活を待つ古代都市や三つ目基地が、地底深くで息を潜めているに違いない。
・・・などと想像が膨らむ。

明日はイサム・ノグチ展の感想でも記そう。
posted by 地図書きのゆみ at 02:14| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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