2014年07月02日

家族、店じまい

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ふたりの子どもたちが、家族という大きなひと塊から熟した実のようにほろりと巣立ち、アスファルトを持ち上げる緑が深々と繁る庭へと目をやれば、夢中でそこを駆け回っていた獣はうすく小さな白い骨の破片になって、もう動かない。

編み合わされた2人の男女の人生が、そこで古びて、そこに色をにじませて、今では死ですらも分かつことのできない、はっきりとした一本になったことを、20年近くかけて堆積した思い出の品々の中に、わたしは眺めた。

逃れたくてもがき、恨めしく憎んだその土地のことを、わたしの心は今でも故郷などという親密な呼び名でもって、慕うことができない。
けれど。
その土地の片隅でわたしたちが家族となり、より合わさって生きていた時間までをも疎む気持ちはもう起こらない。
かわりに、古びた食器棚や色あせたアルバムをたよりにしなければ自分の記憶の中にさえ、そうたやすくは見つからない、こまごまとした思い出の手触りが、夥しい品物や処分される家屋敷と共にどこか遠くへ、永遠に持ち去られてしまうのだという、そんな焦燥に似たさびしさばかりが、苦しいほどに胸に兆してくる。

その人は母として、その人は父として、この家族を全うしてきたのだ。
そんなことを、年老いた娘も、年老いた息子も、言葉なくお互いに確かめ合いながら長い長い夜を過ごし、そしてまた自分たちの住処へと戻る。
雨は垂れ、空からは突然に稲妻が刺さる。
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2014年06月26日

どこを見ているのと問われてもそれは。

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暦が改まる間にひとつか2つくらい、何かに徹底的にのめり込んでは飽きる、というなかなかけっこうな趣味を爾来続けて生きてきている。

なかば人生を賭けなんとする私のその勢いに、他人様はもうその道の玄人かそうでなくともそこに近しいものを目指して私がその後も現実的にひた邁進するのであろう、と感心と驚嘆とに半ば押し出されるようにしてはっきり予感を持つらしいのであるが、半年とたたないうちに当の本人がその猛烈な興味・実践の記憶を白紙がごとく脳から消し去ってしまうので、こちらにすれば久々に会った人からまったく自分の身に覚えのないドリームや野望の成果のほどを「あれはその後どうなっているのか」などと、さも大事めかした様子でもって尋ねられたりするものだから、なかなかに困るのだ。
そういうときにはまこと勝手と言われればその通りなのであるが、さも時代遅れの人間の話し相手をするときのように相手を見くびる気持ちを出しつ隠しつ、その存在自体も定かではない私の過去の壮大な趣味の顛末について他人事のように聞きあやし、遠くを眺めて時を数えるが常なること、なのである。

飽き性と言われればそれまでのことであるが、ひとつのことに執心して続けることと、ある地点で満足を得たらばそれをもって良しと自然心が離れることとを比べてみたときに、どちらかに軍配を上げるなど、たいへん無意味なことである。
飽きず続ける人は1つの乗り物に乗り続けるのが好きなだけのことであり、飽きて次のことにとりかかる人もまた、色々な乗り物を渡り歩くことで新鮮で新しい喜びを好んでいる。それだけのことだ。

だから本年、私は西洋占星術にたいへん凝り出したことについて、それが何か大惨事の前触れであるかのように眉をひそめる人もいるけれど、私は元来が飽き性であるからそういった予感の範疇にあるような大惨事は決して起こらないことはまちがいなく、しかしそうかといって着物柄物の流行り廃りを眺めるような感じで私の動向について「ああ、今年はそうきたか」と気にもとめない人に対しては、今度ばかりは分からないぞ、とその油断を戒める意味合いも込めて、いつも以上に熱心に天体の研究に耽り、よもや今度こそは、という一抹の危惧を与えたいなどとも思うこの頃である。


posted by 2/5、地図書きのゆみ at 17:54| 東京 ☁| Comment(0) | 観(あのときはこうおもっていたようだ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月18日

明るい星と家庭教師

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じっさい宇宙人のことばかり考えている家庭教師はそんなにそうそう多くないのだろうとあなたが思うのならそれは大きな間違いで、やはり宇宙人のことばかり考えている家庭教師というのは世間一般に認知されているのと同じかそれ以上のかなりの人口にのぼっているし、彼らの大半はむしろそのために家庭教師をやっていて、それができなくなるくらいなら何のための家庭教師なのだと思っているし、その特権的自由を取り上げられるような危機が訪れようものなら、それこそ家庭教師権の侵害だ迫害だと家庭教師的正義を掲げて行進したり火炎瓶をそこらへんに投げつけたりといった強硬手段に出る人間はおそらく相当な数にのぼることだろう。それらのことははっきり言って、私のように常日頃家庭教師とごくごく身近に接している人間にとってはまったくもって易しすぎる方程式だ。

「しかし家庭教師とひとくちに言っても、いろいろな奴がいるだろう」という一部の(そして自分の知能が人並み以上だとさりげなく誇示したがる輩にありがちな)天邪鬼な見くびりがどんな事態を招くのか。まだ見ぬ未来の後日譚の苦々しさ。それさえも、私には預言者よろしく肌身骨身にびりびり沁みて頭にきているこの頃なのだ。

人生は暗い。
それでいいじゃないかとホトケが言った。
人生は明るい。
ときどき暗くなっても、まあいいじゃないかとカミはそう唱えた。
しかし人生が明暗のグラデーションで支配されることに苦痛をおぼえた人間は、自然なる明暗を廃し、電源スイッチを導入した。電源スイッチはオンにすると小さなランプが赤く光る。それを見て人はおお、と声を上げた。これでもう好きな時に明るくも暗くもなれる。そう気づいたのだ。

そうして手に入れた明るさも暗さも、単純に短期的な気分を味わうことができる、というそれだけことだったが、しかし気分は大事だった。暗くなれば点けて、明るくなれば消して、点けたままでも消したままでも特に文句は言われなかったし、むしろ電源スイッチの活用は善きこととして奨励された。
かくして人生はつまるところ明暗による気分の集合体なのだという、いささか単純すぎるけれど本質をつらまえた認識がしだいしだいに世界に水のように浸透していった。
そして、自然なる明暗の消滅とともに、それまでほの暗く、そしてときには明るいものとして確かに存在していた人生という一塊の物体は消え、それについて何事かを考える、などという雲をつかむような所業は、もはや不可能な、手の届かないものとして人々の生活からすっかり失われてしまったのである。

それが幸か不幸かはわからないが(私がこんなことを言うと、幸不幸でものごとを語るのも自然的明暗時代の名残りであるよと老人たちは目を細めるだろうけれど)、そう、ともかくそんなふうにして、世界に家庭教師が誕生したわけである。
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2014年06月13日

五月雨組曲、針を落として

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五月雨どきともなると黒々とした森の中に住まっている
童話ワールドの心細き主人公の暮らし。
世界の薄暗さがいつもいつもで、飽きがくれば天晴れ五月晴れの本日。

テレビをオンすれば童話の森から世界蹴球戦争へと一挙にムードはシフトして、
蹴鞠報道の夥しさにこれもひとつの熱中症かと水道水をひた飲みて応戦。

この戦争よ、早く去れ。
心に思うも口には出さず、鍋で豆腐を煮込みつつ南米料理の味わいなどを思う。

たまの日曜。
なにするあてもなく日曜。
雨粒と屋根とで作曲されゆく即興インストゥルメンタルは、
誰の人生も誰の半生もぜんぜんちっとも含まずにしかも無料である部分が多いに安楽。
放っておくといつまでも聞く。
そうかといって毎日はいけない。
聞きすぎてはいけない。

日曜以外は五月雨組曲のレコード盤を棚にしまって、
職業従事という旗を手に行進曲の音量をおらおら上げねばならぬのだ。

わかってはいる。
わかってはいるのだー。
そこが密であり壺でありマヌカ・ハニーであると思う。

勤め先に健康不良を訴えた舌を折りたたんで屋敷の戸締り。
ただよう霧の中、工房に出かけてろくろを回す。手動で回す。
どんぶり茶碗をいくつか形成。
我がワールドカップここにあり。
である。
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 17:38| 東京 ☁| Comment(0) | 観(あのときはこうおもっていたようだ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月11日

今日も泣いていい

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牢獄に進んで押し乗り二十分
揺らぐる地面に噛む草枕

天竺の鐘つき棒を取り寄せて
はやばや祝う、はらからの老い

雨降りをとめる手はなく泣くままに
やさしき粒の音とりどりの色
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 15:59| 東京 ☁| Comment(0) | 言葉で輪切りにした世界(わ!) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月02日

こんな夢の島に暮らそうか

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1年ほどかけて、少しじっくりとドライブをした。
車はニッポンレンタカー。
私ははじまりから終わりまで、ずっと助手席に座っていた。

ときどき炭酸水を口にふくんでは、窓の外の世界を眼の中に移した。
景色はなかなか流れてゆかず、そうかと思うと一瞬で走り去った。
過去にも未来にも道はまたがって、現在地点はほかでもない、鉄とガラスと有機物の組み合わさった、小さな、走る私たちだった。

目的地よりも熱心に、走りつづけることの不思議を私たちは思った。
折り重なる道すじと、悠然とした水の流れを渡る見知らぬ橋の長さと、市街地の起伏と、樹木のつくる影の形と、それらを結び合わせている現在という結び目のあまりにも無造作さな在り方に、私たちは時々おごそかに言葉を閉じた。

ゆき過ぎて戻ったら、そこは夢の島、という名前の場所だった。
夢の島。
実体なきものの名を冠したその土地の役割は都市の吐き出し続ける夥しい質量のため息を始末することで、それらの残骸を埋め立てた上に立つ熱帯植物園の巨大さは、どこかその牧歌的な名を固辞するかのように私たちを圧倒し、浅はかな感傷を振り払った。
夢の島。
ここも、きっとこの現在地点も、ずっとそういう場所でありつづけるのだろう。

私がそのことをはじめて言葉に出してみたあとに、そうだねと声が応えて、私たちはその夢の島に暮らす私たちのことをしばし思った。
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 16:31| 東京 ☀| Comment(0) | 観(あのときはこうおもっていたようだ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月31日

どうして彫刻や器をめでるのかというと。

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言葉への変換がひどくむずかしい感覚や感情。
あるいは、そこまで強く込み上げてくるものではないけれど、うまく言い表せない、他人への伝達方法が見つからないような、漠然と透明で、しかし自分の内側においてはありありと質量を感じられる「その場所の居心地」や「世界の手触り」のようなもの。

感覚未満の、さざなみが起こる直前の静まり返った湖面のような、かすかな予感をはらんだ、皮膚感覚。
「あ」と「い」の間の、どちらでもない、どちらでもある、そういう音。そういう文字。そういう意味。

それらを捉えては、言葉という枠組みに、論理というフォーマットに、何としても落とし込もうとするのが人間の思考の目的であるならば、それを積極的に行うことで随分と世界はいびつな形に再構築されてしまうのではないだろうか、とそんなことを改めて思い、そしてそれは傍から見れば、錆びた時計を眺めながらぐつぐつと限りなく鍋を煮詰めて焦がしてダメにしてしまうような、泣きたくなるやり切れない出来事に似ている、などとも思い、息が苦しくなって、それで時々ロジックやキーワードや定型文ではとても太刀打ちできないような、人工の鋳型には落とし込めないような、それでいて人工的に作られた、巨大な夢の具象物、のようなものに触れたくなる。

歴史の中でこれまでに費やされた膨大な言葉と同じ分だけ、とりこぼされた世界の破片を掬い上げる手があったことを、ほかでもないこの言葉たちによって大いに感謝しながら、器に触れ、胸像にくちづけるのだ。
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 23:33| 東京 ☀| Comment(0) | 観(あのときはこうおもっていたようだ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月27日

停電の夜の手術室にて。

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ジュンパ・ラヒリさんというインド系アメリカ人作家の短編集『停電の夜に』を、この2カ月くらいをかけて、とぎれとぎれに読んでいる。
内容は決してつまらなくはないのだけれど、一気に飲み干すような読み方ができない類の作品で、ひとつの話を読んでは何日か休み、途中でほかの本もはさんで、ちょっと映画でも観て、とそんなことをしているうちに、すべての作品を読むまでにかなりの期間を要していて、まだあと2本、未読の作品を残している。

私はよほど合わない作家の本を無理に読むのでもない限り、読書にそういう時間のかけ方はしない方なので、「ふしぎだなぁ、時間かかるなぁ」とこの本を読みながら首をひねっていた。

さいきん人と話していて、ふと思い出して自分のおすすめ本として『停電の夜に』を挙げたときに、その面白さを言葉にするのが妙にむずかしくて、そのうまく言えないもどかしさが再び「この本ってふしぎだなぁ」という感覚を呼び起こして、いまこうやって文章にして考えている。

どうしてこの小説は、読みすすむのにこんなに時間がかかるのだろう。
ほかの人はどうか知らないのだけれど、少なくとも私はとても時間がかかる。ひとつの作品を読んだら、しばらく次の作品を読む気が起こらない。
そしてその理由は、ラヒリさんの小説の「言いたいことのなさ」に由来するものなのだろうと、何となくそんな気がしている。

彼女の小説を読んでいると、誰かの記憶を撮影したスナップ写真を見せられているような、そんな気分になる。
『停電の夜に』の作品はどれも、悲しみにくれることができない種類の悲しさだとか、不幸だと嘆くにはあまりにありふれている出来事の苦さを描き、極めてドライに人生の片鱗を描写している。
そして、そのフレームの中に作者自身はいない。外側からレンズを覗き、淡々とシャッターを押し続ける。その一連のしぐさこそが、彼女の作品の独特の手触りを作り出している。

そして、それらの手触りは限りなく読者である自分自身が生きている人生の手触りにちかく、似すぎていて、小説によって別世界を体験しているというよりは、「今いる自分の居場所からどんなに隔たっても、たとえ違う人間になったとしても、今の自分が味わうのとそう変わらない、同じ種類の人生しかないのだ」という夢のない事実を告げられているようでもある。

もちろんこの作者は、作品の中にそういうダイレクトな言葉を用いているわけではない。
けれども、人の人生に否応なく紛れ込んでしまう「かたづけようのないもの」「できればそっと見て見ぬふりをしてしまいたいもの」を淡々と描き、そこにそれがあるのだと示す。そういうこと自体が、もう十分なメッセージとして機能している。
そしてその語り口は一見するとマイルドで優しい調度品のようだが、手で触れてみたときに、それが思いがけずひやりとした素材でできていることに愕然とする。

だからジュンパ・ラヒリさんの小説のページをぱらぱらとめくってみると、そこに待っているものは単純な読書というほど生やさしいものではない。
そこにあるのは、自分自身の人生の追体験であり、あるいはまだ味わっていない不幸や侘しさの予告編である。

だから私は、そんなものを次々と読み進められはしなかったのだ。
そして、時間をかけてゆっくり咀嚼しなければ「もたない」という思いにも自然となるのだろう。
ジュンパ・ラヒリさんの描いているのは、作者の人生でもなければ、架空の誰かの人生でもない。読者である私の人生、それそのものなのだから。
それを他人事として読んで楽しみたい気持ちと、読みながら、読み終わった後の苦々しい実感と。
その行ったり来たりを許される場所を作り出す上手さが、彼女の小説の魅力なのだと思う。
そして彼女の作品をたまらない気持ちで読み進んでいるとき。
部分麻酔の手術を受けているみたいだ。
ふと、私はそんなことを思ったりもする。
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 16:47| 東京 ☀| Comment(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

苦い三日月の真下、ポランスキーによる『赤い航路』

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ベルトルッチ監督『ラスト・タンゴ・イン・パリ』とポランスキー監督『赤い航路』を日替わりで鑑賞。

両作品に共通するのは、一組の男女が「凝縮された性の営み」を閉塞した日常からの逃避の場、あるいは刹那的に生の実感を得る手段として用いるうちに、肉体関係の停滞ばかりでなく、2人の人間としての関係性自体が摩耗した、輝きのないものへと老け込んでいく過程が描かれていることだ。

その過程をベルトルッチもポランスキーも容赦なく、赤裸々に、シニカルに描いている。うっとり酔える官能の世界を期待して観ると、その部分は見事に裏切られる。

しかし、両作品によって味わうこの「裏切られ感」は、現実生活にも地続きである。
実人生で色恋に裏切られるということはままあり、(失速、幻滅、倦怠、不信、エトセトラエトセトラ・・・)それとなかなかの接近度で肉薄しているという点において、両作品は自分という小さな世界を超えたスケールで見事な色恋の模型を完成し、その機能や内部構造、老朽化のサインなどをおしげもなく披露している。

恋が老いさらばえて愛に変わるのではない、ということ。
自分の欠落した部分を恋の相手が埋め合わせてくれるはずという強烈な期待感を愛と誤解することで始まる不幸。

個人的にはポランスキー監督の『赤い航路』において、ベルトルッチ監督の荒削りな企みとテーマは洗練と完成をみたように思うが、両者ともありふれた色恋の正体を暴きながら、けれどそこに一抹の美しさを添えることで、不思議な感動とともに生きることの味わいを教えてくれるという点において素晴らしい。

※『赤い航路』のヒュー・グラントはサブ・ストーリーテラーとして見事に主役の二人を引き立てている。
単純で御しやすく、だからこそ愛に飲まれようのない、ある意味ハッピーな人間の典型として配置されていて、ひじょうに心憎いキャスティングだ。
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 16:07| 東京 ☀| Comment(0) | 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月25日

けもの桜、うめ乙女

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さくらはとっても嫌なのです。
だって、あれは草木でなくて、むしろけものにちかいから。

みなさんさくらをよろこびますが、みぐるしくって嫌なのです。
さくらのちらちら白いもの。風によじれる白いもの。
それはさくらの色じかけ。

みなさん色には目がないようで、おらおら出かけて酒に酔い、
「みごとだ、みごと」とものを喰う。
なんとたやすく色香にまどい、おほねを抜かれてしまうのか。

わたしは何だかはがゆくて。
けれど手出しはできません。

さくらのみごとな正体は、宴も飽いたそのころに。
太くて黒い腕ぜんたいに、ゆさらゆさゆさ青髭はやし、
まるでおとこのようなのです。
まるでけもののようなのです。
欲が土から顔を出し、立った姿がさくらの木。

わたしはまいねん見ています。
どうせここから動けずに、さくらを伐るのも人のわざ。
だからわたしもささやかに、小梅を肥らせ色じかけ。
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 15:05| 東京 ☀| Comment(0) | 作文集(ひまつぶしによむよみもの) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする