2011年07月21日

わたしは自宅待機の勇者

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旅に出たくないのには色色わけがある.

まずは遠方へ出かけるほどに住み慣れた屋敷から肉体が離れ,その物理的な距離の巨大さにおののく心はぽきと折れ,つまりはこの身を貫く太き自宅愛ゆえのホームシック.

同行の人間たちが息をのむ素早さで我が家を懐かしむそこはまだ往路.

あるいは旅先の宿にて悩ましきことの最たるは弱小ドライヤーのため息がごとき微風.濡れ髪を持て余し生きた土左衛門となりて湯処より戻れば,何者かの手によって作戦終了後の室内.
すでに敷かれた敷布団掛け布団.
饅頭の白さの不気味な綿枕.
知らず本日はもう終了でございますと入眠のタイミングまでもが強いられてお得な宿泊プランはるるぶかどこかで予約したものだが,決して得をした気分にはなっていないのはどういうわけだ.
外も内もしんしんと静かな温泉宿の夜に口が話す言葉だけ妙に粒立って隣室近所迷惑を恐れ早く寝る.

愛読書もインターネットもはなまるうどんも手が届かない温泉街を激しく憎みながら,なぜうっかり旅に出たのかを自問し続けるはめになる率が10割.
寺や城を見物するは面白いが,その物見遊山のために他人がいつの間にか整えた布団で寝なくてはならないとすればどうか.

(深夜ドラマの「勇者ヨシヒコと魔王の城」は面白い.
ドラクエの勇者めいた出で立ちで仲間を連れて旅をする話だ.)
posted by 地図書きのゆみ at 16:25| 東京 ☀| 他生の縁(みのまわりのことなど) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月31日

おもいで世界は養命酒

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母が入院することになり,退院後に快適な療養生活を送れるよう,実家の環境を整えるのに手を貸せと父から電話がかかってきた.

早い話が実家の物置部屋に送り込んだ私の引っ越し荷物(引っ越しの際に捨てることも新居に運ぶことも出来なかった思い出のガラクタたち.大学生の時の荷物.芝居で使った衣装やら恋人への恨み事をつらねた未投函の手紙など)を始末するようにと通達を受けたのである.

旦那を置き去りにひさびさに1人で帰省するやいなや,開かずの扉を開けるはめになるが,まずは一杯麦茶飲み.

蜘蛛の巣と綿埃,じとじと湿った黴の匂いのただ中に、特大段ボールに10箱強.
さらに,海外旅行用に購入したトランクにもパンパンに荷物が詰め込まれて放置されているのを私は見た.
実家と若さに甘えての遠距離不法投棄的暴挙のなれの果てを三十すぎて間の当たりにするとは天罰か.

1つ,2つと箱を開けるうちに,端からメラミを唱えて燃やしてしまいたくなるいろいろな記憶.
そして,東京のマンションに持って帰るほどではないが,やはり捨てられない青春時代の遺品.
大学の講義のノートにはじまり,学生運動の片棒をかついでいたころのヘルメットやビラの原版.もはやあらすじさえも思い出せないフランス映画のパンフレット.「眺めるだけで痩せられる」というコピーのついた,怪しい催眠術師による謎のダイエット絵本.
「マジックを仕事にする」「美容師になるには」と題された職業案内本の数々.
あの頃,いったい私は毎日何を考えて生きていたんだろうか.
ほんの数年前のことなのにさっぱり思い出せない.
掘り出した品々をよりわけながら,自分のしてきたことが他人事のようにどこか理解の範疇をはみ出していく.

そのうち,実家で過ごしていた子供時代の写真やノート類なども部屋の隅から出てきた.
適当に漁っているうちに,ふと一枚の写真を手に取る.
そこには大胆に手脚やお腹を露出した少女の姿が.
何かいけない写真かと思ったら,それは自作のコスプレ衣装を身にまとった小学4年生の私自身であった.
コスプレのテーマは「不思議の海のナディア」.
写真を見ているうちに記憶が甦ってくる.
この写真を撮影した日は自転車で奔走したあげく,なけなしの小遣いをはたいて近所の駄菓子でブルーウォーターらしき首飾りを買い求めたのだ.
さらに,一冊の同人誌が段ボールから出てくる.
また忘れていた過去を思い出した.
雑誌投稿が縁で知り合ったゲーム同人の同人誌に参加した小学6年の秋.
その当時の自分のイラストが載った雑誌の切り抜きファイルを発見する.
歴史を塗りつぶしたくなる恥ずかしいペンネーム.
イラストの脇に添えられているのは,万死に値する浮ついたコメント.
消せるものなら消してしまいたい.

あの頃はお金がなくてハガキが買えず,画用紙をハガキ大に切りぬいたものに絵を描いてしつこく投稿していた.
ドラクエやFFに登場する半裸の女性キャラクターを一心不乱に(月に100枚くらい)徹夜も辞さずに描いていた内向的な少女時代.
もしも自分に娘が生まれたら,そんな風にだけは育ってほしくないと思う.

それからぽつぽつと歌の歌詞のようなものが綴られたノートが出てくる.
そうだ.
コミケの閉鎖的な文化に絶望した中1の夏.
あの日,私は漫画を描くことをやめて,歌手になろうと思い立った.
全世界に通じるような美しいメッセージを音楽でつむぐのだ.
そしてその日から歌を作りはじめた.
若さゆえの吟味を知らない瞬発力はすさまじい.
そこからしばらくの間は本気で自分が歌手になれると思っていた.
しかし,独学で励んだ半年間のボイストレーニングの後,
夢見がちな少女はとつぜん悟る.
正しい音程で歌えないのは気のせいだろうか.
いやむしろ,正しい音程というのが未だによく分からない...
けれど,その漠たる予感から自分が宿命的な音痴だということに気がつくまでにはさらに3年ほど歳月を要した.
中学時代友達らしきものが一切できなかったために,友人の1人が一緒にカラオケに出かけて私の音痴を指摘してくれる,などというほろ苦いハプニングも起こらなかったせいだ.
そして,高校に入ったらバンドを組もうと思っていた矢先の中学3年生,修学旅行のバスの中でひとりZARDを熱唱し,クラスメート全員に爆笑されるという衝撃の事件があってはじめて,私は歌手には向いていない.そう思った.

結局,大学時代の荷物や芝居で使った諸々の品物を処分して,門外不出の歴史の遺物のみ東京へと搬送した.
そうやすやすと夢が現実に変わることはないと知る前の,あの無邪気な全能感に包まれた黄金時代の記憶こそ,夢見ることに頓挫した今の私には養命酒.
自宅に届いた荷物を前に夫が「君,変な子だったんだね」と妻の過去を評しつぶやいたとしても,その薬効は存分に発揮されること請け合いである.

posted by 地図書きのゆみ at 22:22| 東京 ☁| 他生の縁(みのまわりのことなど) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月17日

寿太郎と夢天秤

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私の大切なお友達の寿太郎さんが,人としての分別を大胆に放棄したのがこのたびの春の出来事.
その知らせが私たちに届いたのは口惜しい一昨日のことでございました.

寿太郎さんは美の道を志しておいででしたから,もちろんその感覚を磨き育てるのに広い意味での情操教育が不可欠というのが一般的な見解でしょう.
私も常々,読書や絵画だけでは寿太郎さんの感性を存分に伸ばすことはできないのではあるまいかと心密かに訝っておりましたから,あの方の朴念仁めいた暮らしぶりというのは他人事ながらどこか歯がゆい心持ちがしておりました.

寿太郎さんの暮らしといえば,お独り住まいの屋敷にて蕎麦や冷や麦ばかりを茹でて召し上がっていたようですし,お勤めのない日には朝早く美術展にお出かけになり,人にも会わず飯屋さんでちょこちょこと菜をつまんでまっすぐ家へと帰ってしまうのですから,まるで華やぎというものがありません.
それでも時折は赤提灯のお供が欲しいと思うのか,私の主人をひっぱって行き,どこぞの繁華な街角でお酒を飲まれることもあるようですが,酔えど語れどめぼしい恋の噂など寿太郎さんの話には気配すらよぎらぬとは主人の談でございます.
女性のお知り合いとお出かけになったらよろしいのに,と私から勧めることもありましたけれど寿太郎さんは心外だという顔をして,「興味がないのです」と言ったきり,取り付く島もありません.
そういう経緯がありまして,あれこれ世話を焼いてみたりもしたのですが,一向にそれが実を結ぶ気配もなく,広い世の中には寿太郎さんのような生き方も認められてしかるべきかと甲斐なきお節介は慎んで,私も主人もあれこれ寿太郎さんの人生に口を出すのをやめました.

そんな折も折,突然に寿太郎さんが雲隠れなさったのがこの5月.
いったいどうしたのかと思いながら,私たちも日々の暮らしに追われながらの小市民ゆえ,ひと続きの気持ちを保つのが難しく,あちらへこちらへと用事を片付け心を配るうちにすっかり寿太郎さんとのお付き合いが途絶えてしまっていたのです.
便りなきこともまたよき便りだとは今昔の時代からよく申しますけれど,今回のことに限っては,何か事情があるのではないかと疑ってみるべきでした.
そうすれば,一昨日の真夜中の電信にて,まだ歯も生えそろわぬような若いお嬢さんのお宅に寿太郎さんが体ひとつで逗留していると耳にした時も絶句する代わりに気のきいた挨拶くらい口にできたかもしれないのです.

何でもそのお嬢さんは絵を学ぶために上京されて今はお独りで下宿住まい,けれど故郷にはこれと決まった許嫁がいらっしゃるのだとか.
それで貴方はそのお嬢さんとどうなさるおつもりなのですかと電話口で寿太郎さんに詰めよりますと,「結婚したいに決まっています」と潰れたカエルにも似た情けない声で陳情を始めるのですから寝しなを起こされた私は返す言葉も見つかりません.
許嫁もいらっしゃるお嬢さんがなぜ寿太郎さんとそんなことになってしまったのかは私も正しくは把握しておりませんが,どうやら道を同じくするもの同士,ごく単純に心が惹かれ合ってしまったのでしょう.
それにしても,寿太郎さんの手の平を返すような理性への裏切りはいかがいたしたものでしょうか.
あと数カ月で学校を卒業されるお嬢さんは,それまで寿太郎さんとの関係には名前をつけずに様子を見たい意向でいるようです.
あちらへこちらへとその心が迷いがちな若い娘さんを導いて,人の道を教えてやるのが年長者の務めということは寿太郎さんご自身もはっきり理解しておいでですのに,あの人ときたら,おそらく婚約者を捨てられぬであろうお嬢さんの世話焼き奴隷になる気でいるのですから何ともタチが悪い話です.

ああけれど,
そんな寿太郎さんの愚行も光の当て方によれば美しき感性の訓練にほかなりません.
それは私には手の届かぬ光.
蛍火のような尊い自然の輝きなのでございます.

posted by 地図書きのゆみ at 15:57| 東京 ☀| 作り話(あっとうてきなしんじつ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月12日

序来

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相対性理論について,
ロシアンルーレット寿司に鼻粘膜を爆撃されながら
三鷹の狩人きづきぃにレクチャーしてもらったのは
まだ4月だか5月だかその頃のこと.

時間は伸び縮みするのだとか,光の速さにてうんぬんとか,
さすがはそのむかし宇宙工学を学んだというだけあって
何やら参考文献も矢継ぎばやにきづきぃは
どんどんと列挙するアメリカンダイナーにて.

ワサビの武力に敗北して以来,
鈍速でしか動かぬわたしの頭脳に単語と概念シュタタと打ち込み
好奇心を移植するドクターの腕前で彼は,
「量子の国のアリス」を読んでくださいというから,
もちろん後日図書館で借りたけど,図書館の本を読むというのは,
人妻に遊んでもらっているみたいな
先が見えてる感じが虚しくてどうにも,
だから結局借りたものを返しただけで
まだ未読のストーリーについては蟻の子一匹も先に進まない葉月,
量子とアリスのティーパーティーの行方は白紙.

あれから何年たったのかしら...
ってまだ数週間のみ経過の現在ですが
読書習慣よ紅海に来たれ.
モーゼがまずは海を割り,
食いしん坊が箸を割り,
量子とやさしい中性子
無知なわたしに腹を割る.
もうすぐ読書の秋ですね.
さんまラブ.
posted by 地図書きのゆみ at 14:19| 東京 ☔| 作文集(ひまつぶしによむよみもの) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月24日

墓場越しダイヤモンド

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墓場から立ち上がる巨大な霜柱はもちろんビルで西新宿
ビルたちは虹色の目、3000粒のダイヤモンド
だって夜だからそりゃ光る
内側から照らしてなどいないくせに何カラットあるのよ
頭蓋骨と話をするという男の人に会いにあたしは
雨をあびるともう西新宿
何番目の骨に話しかけているの嘘つき
もう気持ち声をあげて少し驚かせてみせて夜空を
posted by 地図書きのゆみ at 23:15| 東京 ☔| 作文集(ひまつぶしによむよみもの) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月04日

焦がれる氷乙女、未だ溶けず

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スタバでマカロン頬張りながら、
ミネラルファンデやジェルライナー
アルガンオイルの話をしたい。

若い女子のみ限定の
恵比寿か中目のヨガスタジオで
無心に油を燃やしたい。
美人の隙間で息したい。

夜更けに湯船で長電話
彼氏の浮気を愚痴りたい。
のぼせて指紋は立体化
むくんだ五臓はまた肥大。

四面のタイルが沸騰しても
まだまだ骨まで届かない。
あたしの体は永久凍土か、
溶けても溶けてもまだ固い。


posted by 地図書きのゆみ at 23:13| 東京 🌁| 作文集(ひまつぶしによむよみもの) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月22日

捜索の手引き

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物理的に追い出しを喰うことはあらねど
状況に押し出されての屋移り
術なし術なし
ナポリタンは駄菓子
李白と杜甫
ヘンゼルとグレーテル
ごとうさんと洪水波浪注意報
しょんべんくさいがきの意味がわかる
敏感すぎる中年
ぶどうジュースを葡萄酒だと勘違いしていた
時代を忘れちゃいけない
雲は炎で燃えて空
友達はみんなまじめ
天蓋町
地下町
posted by 地図書きのゆみ at 22:37| 東京 ☀| 作文集(ひまつぶしによむよみもの) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月12日

誰も彼も贈答は未熟

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離婚したばかりの友人と会うのに,
何か慰めになればと思い,
市販の小説を選ぶのだがこれがなかなかにむつかしく,
夫婦にまつわる小話は生々しかろうと遠慮すれば,
あまりに能天気な青少年の与太話では
何をのん気な,と彼女.
腹も立ちすなると書棚へ返却.
さりとて苦労人の不幸譚を贈りもすれば,
貴殿の悲惨の上には上がと,
なにやら説教めいたものを匂わせはしまいかと
思われて却下.
これ,という確信も得られぬまま,
穂村弘の「現実入門」に思いを託す.

誕生日の数日前に,
実家の家族から
手紙と記念品の腕時計が送り届けられたのだが,
いよいよ明日という前日に母よりの電話.

お贈りした腕時計のことだけど,
ちょっと貴女には地味すぎるので,
お母様も時計を買うからその新しいのと交換をしましょうよ.
あなたにあげたその時計,
お母様にはぴったりだから.
お母様にも必要なのよ,銀色のやつが欲しいのよ.

電話が切れて,時計をはずす.
針が進んで三十歳.


直子さんからメールが届く.
「おいでやす新しい世界へ」

直子さんの住まいは京都の地蔵がたくさん
いる土地らしく,
会社帰りに地蔵につかまりそのまま帰宅.
家に棲みつく輩も多いという.

よければ地蔵を差し上げるけれど
気難しくてあなたみたい.
年の数だけ地蔵を持てば,
少し体力つくかもね.

じゅうぶんじゅうぶん,お気持ちだけで.
かさばるものなら尚のこと.
私によく似た地蔵など,
お話だけで手いっぱい.

いまだ昨日と地続きの,
ここは三十代の国.
posted by 地図書きのゆみ at 11:58| 東京 ☔| 他生の縁(みのまわりのことなど) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月07日

be my see more,love franny

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サリンジャーがこの世を去り、
15年ぶりに「ライ麦畑でつかまえて」を
読もうと自然に思い立って、
だから書店へと急ぐ。

村上春樹氏の訳である
「The Catcher in the Rye」のほうではなく、
あえて当時読んだ野崎孝氏による訳書のほうを手に取り、
懐かしい表紙(象牙色とサファイアの青色とのツートン・カラー)
を眺めると、
どうもお久しぶり、とか、いろいろありがとう、
とか、でもまだぜんぜん、ぜんぜんぜんぜん、
とか、ひとくちに言えない、とりとめのないつぶやきごとで
口の中が満ちて考えの道筋を乱していて、
ページをめくってもなかなか、足跡になってしまった
言葉を飲み込みゆけずにしばらくを過ごす。

ドストエフスキーとかサマセット・モーム、
夏目漱石や森鴎外の本を読むときは、
主去って久しい城をそぞろ歩くようにむしろ心は晴れやかで、
その歴史や時の隔たりがかえって城の偉大さをずしと
重みに変えてビカと光らせうならせる、
それが常なのだけれども。

現在進行形の王国が、
たとえその全盛の時代を離れて
鎧脱ぎ静かに沈黙していたにせよ
ある日レコードが終わるように
鳴りやんで、ぽつりとも音がしなくなってしまう、
その無音のさびしさ。
物語は今なお丘の上にはためいて高らかに、
けれど鳥は鳴き、けれど風は吠え、
太陽がのぼりまたいちいちと海の向こうに
落ちていくことの何とも言えぬ寂しさ。

作品を受け取って、語り継ぐ、
その単純極まりない
読者としてのしぐさを持って、
J.D.サリンジャー氏への敬愛と
哀悼の意に変えたいと思う。

posted by 地図書きのゆみ at 21:28| 東京 ☀| 心中(いつかはきえてゆくものたち) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

「わたし」の不在と彼の「地点」

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地点第17回公演
「あたしちゃん、行く先を言って」
を見た。

地点の作品は演出がかなりパフォーマンス寄りで、
戯曲をもとに作られてはいるが
そこから生み出されるのは物語ではなく
ひとつの音楽であり、風景である、
といってもいいかもしれない。

毎回作品において特徴的なのは、
役者がセリフを言うときに
セリフの内容とは関係なく、
その文節が不自然な区切れ方をしていたり、
言葉が引き伸ばされたり、
いっさい棒読みになったり、
抑揚も声量もそこに乗せられる感情までもが、
意図的にセリフの内容と引き離され、
いかにも「不自然」にコントロールされている
その独特の発話法である。

この手法によって舞台上の言葉は,
セリフの意味やセリフによって導き出されるはずの世界観、
を伝える機能をいちじるしく奪われ,
意味を漂白された音の連なりとなって、
我々がふだん使う言葉とはまた別の存在感を持ち始める。

同じ意図は作品全体の演出にも徹底して貫かれていて、
たとえば,何かセリフの中にあるキーワード、によって
いやがおうにも具体的な物語、あるいはそれを連想させる関係性
が生じようとするとき、
それを次の瞬間には溶かすようにして
場面は操作され、物語になりかかったものはたちまち抽象化される。
舞台上で、役者の言葉や演技が抱え込んでいるはずの
なんらかの意味ある情報を無価値化してしまうのだ。

そのためにたびたび繰り返されるのは、
役者がお互いのセリフをシャッフルしたり、
発声練習がごとくセリフを極端な抑揚で試し読む行為だ。
あるいは、漠然としていながら極めて丁寧に行われる
抽象的な動き、無目的化された身体の運動。

それらは、セリフや行為が特定の誰かのものではない
ということ、舞台上の役者の誰一人として、
そこで話される言葉の内容に決して寄り添ってはいないのだ
ということを明示する。

物語が展開していくのを見せる芝居を観るときに
我々が当たり前に想定するような
お話の中の登場人物たち。
それすらもまた、地点の舞台には不在なのである。

役者は音を出す装置であり、
感情を演じてみせる機械である。
音や、動きといった結果はあるのにもかかわらず、
主体となる「人間」だけがいない、という不在感。

その不在感が、
どんな熱演よりも「言葉を口に出す」
という行為の不可思議さを観客に差し出し、
演じる対象を取り去ったときに初めて見えてくる
「演じる」行為そのものの姿を浮き彫りにして見せてくる。

抽象性の高い演出に加えて、
モチーフとなった戯曲がコラージュ的であり、
さらにそこに同作者の他の著作からも
引用した作品づくりをしているとかで、
面白い部分と、冗長な、つまらない部分とが混ざっているようにも思えた。

しかし、こうして作品を振り返って
何を見たのかを言葉にしようと考えるときに、
面白さもつまらなさも同様に作品の一部として
仕組まれていたのではないかと、
改めてそんな風にも感じる。

地点
http://www.chiten.org/
posted by 地図書きのゆみ at 21:41| 東京 🌁| 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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