2010年02月07日

be my see more,love franny

さぼう.jpg

サリンジャーがこの世を去り、
15年ぶりに「ライ麦畑でつかまえて」を
読もうと自然に思い立って、
だから書店へと急ぐ。

村上春樹氏の訳である
「The Catcher in the Rye」のほうではなく、
あえて当時読んだ野崎孝氏による訳書のほうを手に取り、
懐かしい表紙(象牙色とサファイアの青色とのツートン・カラー)
を眺めると、
どうもお久しぶり、とか、いろいろありがとう、
とか、でもまだぜんぜん、ぜんぜんぜんぜん、
とか、ひとくちに言えない、とりとめのないつぶやきごとで
口の中が満ちて考えの道筋を乱していて、
ページをめくってもなかなか、足跡になってしまった
言葉を飲み込みゆけずにしばらくを過ごす。

ドストエフスキーとかサマセット・モーム、
夏目漱石や森鴎外の本を読むときは、
主去って久しい城をそぞろ歩くようにむしろ心は晴れやかで、
その歴史や時の隔たりがかえって城の偉大さをずしと
重みに変えてビカと光らせうならせる、
それが常なのだけれども。

現在進行形の王国が、
たとえその全盛の時代を離れて
鎧脱ぎ静かに沈黙していたにせよ
ある日レコードが終わるように
鳴りやんで、ぽつりとも音がしなくなってしまう、
その無音のさびしさ。
物語は今なお丘の上にはためいて高らかに、
けれど鳥は鳴き、けれど風は吠え、
太陽がのぼりまたいちいちと海の向こうに
落ちていくことの何とも言えぬ寂しさ。

作品を受け取って、語り継ぐ、
その単純極まりない
読者としてのしぐさを持って、
J.D.サリンジャー氏への敬愛と
哀悼の意に変えたいと思う。

posted by 2/5、地図書きのゆみ at 21:28| 東京 ☀| 心中(いつかはきえてゆくものたち) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

「わたし」の不在と彼の「地点」

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地点第17回公演
「あたしちゃん、行く先を言って」
を見た。

地点の作品は演出がかなりパフォーマンス寄りで、
戯曲をもとに作られてはいるが
そこから生み出されるのは物語ではなく
ひとつの音楽であり、風景である、
といってもいいかもしれない。

毎回作品において特徴的なのは、
役者がセリフを言うときに
セリフの内容とは関係なく、
その文節が不自然な区切れ方をしていたり、
言葉が引き伸ばされたり、
いっさい棒読みになったり、
抑揚も声量もそこに乗せられる感情までもが、
意図的にセリフの内容と引き離され、
いかにも「不自然」にコントロールされている
その独特の発話法である。

この手法によって舞台上の言葉は,
セリフの意味やセリフによって導き出されるはずの世界観、
を伝える機能をいちじるしく奪われ,
意味を漂白された音の連なりとなって、
我々がふだん使う言葉とはまた別の存在感を持ち始める。

同じ意図は作品全体の演出にも徹底して貫かれていて、
たとえば,何かセリフの中にあるキーワード、によって
いやがおうにも具体的な物語、あるいはそれを連想させる関係性
が生じようとするとき、
それを次の瞬間には溶かすようにして
場面は操作され、物語になりかかったものはたちまち抽象化される。
舞台上で、役者の言葉や演技が抱え込んでいるはずの
なんらかの意味ある情報を無価値化してしまうのだ。

そのためにたびたび繰り返されるのは、
役者がお互いのセリフをシャッフルしたり、
発声練習がごとくセリフを極端な抑揚で試し読む行為だ。
あるいは、漠然としていながら極めて丁寧に行われる
抽象的な動き、無目的化された身体の運動。

それらは、セリフや行為が特定の誰かのものではない
ということ、舞台上の役者の誰一人として、
そこで話される言葉の内容に決して寄り添ってはいないのだ
ということを明示する。

物語が展開していくのを見せる芝居を観るときに
我々が当たり前に想定するような
お話の中の登場人物たち。
それすらもまた、地点の舞台には不在なのである。

役者は音を出す装置であり、
感情を演じてみせる機械である。
音や、動きといった結果はあるのにもかかわらず、
主体となる「人間」だけがいない、という不在感。

その不在感が、
どんな熱演よりも「言葉を口に出す」
という行為の不可思議さを観客に差し出し、
演じる対象を取り去ったときに初めて見えてくる
「演じる」行為そのものの姿を浮き彫りにして見せてくる。

抽象性の高い演出に加えて、
モチーフとなった戯曲がコラージュ的であり、
さらにそこに同作者の他の著作からも
引用した作品づくりをしているとかで、
面白い部分と、冗長な、つまらない部分とが混ざっているようにも思えた。

しかし、こうして作品を振り返って
何を見たのかを言葉にしようと考えるときに、
面白さもつまらなさも同様に作品の一部として
仕組まれていたのではないかと、
改めてそんな風にも感じる。

地点
http://www.chiten.org/
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 21:41| 東京 🌁| 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月27日

往く月の宴

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おいと目が覚めて,
「とてもはやい」という名前の粗茶を煮出して
湯気にあたっているともう夜だ.

はやいというより,見えないくらいでその速度.
時間は弾丸,糸を引く魔球.


あわてて髪を梳かしつけ,
風が前からこう吹き付けてくるぞ
という格好に整えて戸締り.
図画工作の夜は更けて,アルミ箔で誰かが
お日様を満月に変えて空をレイアウト変更.

画鋲が画鋲がお星さま.

「まだはやい」という名の電車に乗ると,
そこはいつでも電話の時間.
どこかの知らないお得意さまが
着信履歴を売る時間.

いまいくいまいくこんどいく.

ガラス越しの夜に
いろいろなことを思い出すたとえば.
烏帽子青年いわく,
僕の鼻粘膜を焼きましょうか
あなたさえよければ.
だめだめそんな,そんな勇敢.そんな愚行.
わたしの一存などで粘膜のことは
すべて自己責任でお願い.

また木月,あらわれる亭主.
入店したのは「もうおそい」という名の
しゃぶしゃぶ温野菜.

掬っても掬っても溶ける肉は
舌に乗らず出し汁ばかりすぐ注ぎ足される真冬.

posted by 2/5、地図書きのゆみ at 15:58| 東京 ☀| 作文集(ひまつぶしによむよみもの) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月19日

錯覚作家と「地上」の模型

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鎌倉で開催中の内藤礼の個展
「すべて動物は,
世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」
に行ってきた.

鎌倉近代美術館は,一階と二階とそして吹き抜けの中庭.
また建物自体は鶴岡八幡宮の敷地内にあり,源氏池の水上に
浮かぶような格好で佇んでいて優雅だ.


内藤礼の作品にはいつも驚きがある.


ビーズを連ねた糸を水に変えたり,

源氏池を瓶の中に瞬間移動させたり,

作品をお客さんに配って持ち帰らせたりする.

そしてすべての場所において,
あるようでないと思われたものが,そこにあったりする.

一見すると素朴なオブジェを陳列・展示しただけにも思える
空間は,実は緻密な計算と明確な意図をもって構成されており,
その空間の中に含まれている自分をも含めて
ひとつの作品として機能していることを体感できる
見事な仕掛けになっているのだ.

そういう点では
内藤礼の作品は,とっつきやすいと思う.
とっつきやすいというか,答えがちゃんとあるというか.
現代アートというと,
何がいいのかよくわからない抽象的なフォルムの物体が
置いてあって,タイトルを見ると「生命」とか書いてあって
分かったようなわからぬような,でも何となく「これがこの
作家にとっての生命の形なのね」みたいな風に自分を
納得させて行き過ぎている方にはぜひおすすめしたい作家の
ひとりだ.

現代美術といえば,
わたしはオノ・ヨーコの作品が昔から好きなのだけれど,
彼女がイマジネーションを材料に,
観客の頭の中に作品を作るという手法をたびたび
用いるのに対して,
内藤礼は,
彼女が,あるいは観客がイメージ上のものとして
頭の中しか描けないものを,肉眼で見ることができる形
に変換して提示してみせる(そのように錯覚させる)
という点において,
オノ作品と合わせ鏡のようでなかなか面白いと思う.

そしてまた,オノ作品が観る人の想像力を信頼しているのと
同様に,内藤作品は人間の感じて受容する力を
作品の仕組みを支える大きな軸に据えている.
そのことが,観客の感性という半ば漠然としたものを,
作品の一部として(あるいはまた作品の「結果」として),
動きのひとつに取り込んだダイナミックなインスレーションを
成立させているのだと思う.

内藤礼
「すべて動物は,
世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」
2010年1月24日まで
神奈川県立近代美術館 鎌倉にて.
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2009/naito/index.html
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 12:03| 東京 ☀| 異世界曼荼羅(感想文) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月14日

葱のミルク化現象

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このところ薬膳料理にはまっていて、
毎日の料理にとにかくネギをよく使う。
なんだか知らないけど、
ネギは体を温めてくれるらしいのだ。

薬味にはもちろん、煮たり、炒めたり。

そのせいで冷蔵庫には常にネギが。

我が家は買い置きをしないほうなので、
あまり品揃えが多くないのがいつものホワイト・フリーザーだ。
しかし春夏秋冬、いつも牛乳だけは切らさないことになっている。
猫舌の私は必ず熱い飲み物を牛乳で割るし、
旦那はコーヒーをカフェオレにしないと
飲めないカフェオレ兄さんだからだ。

そんな牛乳と並んで、冷蔵庫の常連、いや
番人と化したネギ。

二者間のコラボはいまのところまだないが、
いずれ、あの二人しか残っていない、万事休す、
みたいな夜が来ることだろう。給料日前とか。
そのときには多いに活躍を期待したいと思う。

posted by 2/5、地図書きのゆみ at 23:58| 東京 ☀| 他生の縁(みのまわりのことなど) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月11日

木月と寛大トレーニング

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キヅキ氏と旦那とが夜町に二人会し
晩酌の座をもうけるというので、
労働ののち一人ふてくされ帰宅後のわたしは真実に孤独。
寒居にて紅鮭を一切れ蒸しては
湯気にばかり包まれていると着信。
いざいざ宴の熱にあたりに来てはどうか今からお前も、
という誘いなのである。

右目左目コンタクトレンズは既に泉の中で浸水し、
脱ぎ捨てたメリノウールと
ようよう人肌に温まりつつある
皺皺のパジャマの後ろ前は今日も不覚。
お気持ちだけでと配偶者ゆえの遠慮。
ゆえの期待。のちの承諾。
置き去りの紅鮭。

身支度のお手間はもはや前戯と
誰ぞのたまう急行列車にて。
降り立てば繁華街のうるさき様が
小耳をぞくぞくと引き立てるポン引きの隙間。
水流をのけるように捌くように縫い歩く
目的の店はいずこ。

ランプ灯りが命の憩いの酒場の名は「海」。
不案内な電話ごしの道案内にようやく辿り着けば
マヨネーズ塗られし眼鏡かける我が最愛の人。

美しきカーブに縁取られし薄型レンズに、
無数の指紋が力強く油でスタンプされている現在は
購入から三ヶ月。
バラエティかバラエティかと
まだ素面のわたしばかり苦悶。

しかし酔いは2割を5割にし、
暴挙を心意気に言い換える午前0時。

キヅキ氏は褒めてほぐして妻の心をさしあたり掌握。
わたしのファンだとまで持ち上げるので
まんまと我が城は陥落し、
傀儡政府が立つや立たずや
というところで夫の密やかな嘔吐。

不可侵の約束を暗黙に取り交わして解散は解散。
ワッツアップ深夜料金。
タクシーに乗ると口をつく御免下さい。

posted by 2/5、地図書きのゆみ at 19:54| 東京 ☁| 他生の縁(みのまわりのことなど) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月03日

お願い

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お願いがあるのだとあなたは言って、
覚えていてほしいのだと彼女に生餃子を押し渡す。

彼女はまだ仕事中で、雪の散る商店街の黒く冷たい
墓石の道にその足が埋められているのです。
彼女の23センチの右足と23・5センチの左足は。

何を?覚えているべき?わたしは?とたずねる前に
彼女は生餃子の入ったプラスチックの容器を、
平べったい昆虫みたいな形のその透明な容器を、
ぐしゃりと濡れた地面に落として、あ
の形に口を開いて人形みたいに固まってしまう。
血が凍る彼女の指先にはポケットティッシュ、
あの素晴らしいあなたの伴侶、がビニルに包まれて
真四角く上品に抱かれている。
それはとくに彼女の大切なものではないのだけど、
ポケットティッシュは。けれど彼女は仕事として
それを配らなくてはならないのです。
見知らぬ人たちに。
だから、
彼女の仕事のすきまに生餃子を差し入れるなんて
非道はやめてあげてちょうだい。
そういうお願いをわたしがしたことを、
覚えていてほしいの。
あなたがいつも好きだという、生餃子をいまあげるから。
お願い。
posted by 2/5、地図書きのゆみ at 23:10| 東京 🌁 | TrackBack(0) | 作文集(ひまつぶしによむよみもの) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月28日

フローチャートA

ひまわり.jpg

それは、いなくなり方、とでも言うべきものなのだろうか。
人がある場所から強固な意志をもって自らの姿を消してしまう、
そのやり口について、何か呼び名をつけるとすれば。

仮に、それをそう呼ぶのだとして、そう呼ぶのだとすれば、
わたしはもうずいぶんと長いあいだ、
彼女の「いなくなり方」について考えをめぐらせている。
そういうことになる。

彼女をこの世界の外側へ、あるいは内側へと押し出した
ものは、いったい何だったのだろうか。
ということについて、わたしは隅から隅までくまなく検証しよう
と、試みている。

わたしがそれを考えるときに、必ず頭に浮かぶのは
台所に立つ彼女の後ろ姿と、鍋に湯を沸かしながらはるさめが
と言いかけて途中で止めてしまったぽかんとした唇のかたちだ。

そうだった。
と、わたしは思い出す。
最後の夜は中華サラダを作るのだと彼女は言っていた。
中華サラダを作るために、いろいろと準備が必要なのだと。

何事もない一日だった。
とくに変わったことも起こらない。
ニュースは流れ、雲は走り、電車に乗れば人間ばかりが目についた。
だからというわけではないが、その日はあまりものを考えなかった。
と、記憶している。
その日は?
その日も、だ。
その日も、わたしはあまりものを考えなかった。

仕事を片付けて、20時すぎに家に帰ると部屋が寒かった。
台所で夕食を作っている彼女にそう言うと、
買い物から帰ったばかりなのだという返事が返ってきた。
食事ができるのを待つことにして、わたしはテレビをつけた。
閉め忘れたカーテンの隙間から、真っ黒な夜が見えていた。

発光するテレビの向こう側に、作業する彼女の姿が見えた。
献立のことを何か言っているのが聞こえたが、
テレビの音に食われて、そのまま溶けてしまった。

わたしが何も応えなくても、彼女がこちら側にやってきて
もう一度自分の言葉を繰り返すようなことはなかった。
わたしが応えようと、応えまいと、彼女は一人で何かを
考え、口にし、作業を続けていた。
その様子は、まるでもう一台のテレビが、ここにはいない
彼女の姿を映してわたしに見せているように見えた。

目を移すと、テレビがわたしに話しかけてきた。
話題は中華サラダだ。
きゅうりとハムを千切りにしておきます。
春雨は水で戻さなくても、フライパンで煮てしまいましょう。
時間と手間がはぶけてとても楽ちんですよ。
鶏がらスープの素を小さじ一杯忘れずに入れてください。
水気がなくなるまで炒め煮にしたら胡麻油を回しかけて
手順1の食材をしっかりと混ぜ込みます。
ねえ、どうしようはるさめがと彼女が言います。
はるさめが、と言いかけて途中で必ずやめてください。
酢を大さじ2さとう大さじ1しょうゆ大さじ2調味料は
しっかりと味をつけるように多めに入れるのがポイントです。
仕上げに煎りゴマをまぶしたら、すっかり彼女はいなくなっています。

ガスの火はついたままだった。
すっかり彼女はいなくなっていた。




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2008年08月05日

そしてそしてそして、その模様

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あらゆることには原因が根を張り、
あらゆることの先々には結果の果実がぶらさがっているわけだが、
その間をつなぐ幹の部分、枝葉の部分というのを生きるのに
精一杯なので日常は、重たく揺れる熟した実を大地に向かって
引きつける見えない力のことなどまるで思いもせずに人は、
季節の終わりや移ろう様に心奪われ、
奪われる以上にまた何かを恵まれて人は、
やって来る別の季節を生き、生きてゆけるのだろうか。

たとえば輪廻というものがあるとして、
その輪をつなぐものは、そして、そして、そして。
そして人は死に、そして人は生まれ、そして人は生きる。
そしてという橋がかかり、ここはむこうに。いまはいつかに。
転がってゆく転がってゆく生と死とその間の形なきものたち。
回り続けることではじめて、意味をなすその美しき模様。
けれど、ひとつひとつの瞬間を切り取ればそれは、
ときに哀しく、ときに切なく、ときに幸福で、得がたい、
わたしには作られぬ何かであることには間違いない。

どこに根が伸び、どこに実をつけているのか
見当すらつかない長い長い永遠のような直線上のある一地点。
短く目印を刻みながらほんの少しだけその直線の一部を知って、
自分もやがて「そして」にたどり着く日がやってくる。

そしてそしてそして。

その先に、そしての先に続ける言葉を
そしてわたしは誰かに託すのだろう。






posted by 2/5、地図書きのゆみ at 23:52| 東京 🌁 | TrackBack(0) | 心中(いつかはきえてゆくものたち) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月21日

浮き雲に、記憶地図を宿しつ

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夏太郎さんと出かけるといつも雨になりますが、
そう嫌な気持ちにならないのは何か理由があるのでしょうか。

表通りに出た途端、白い町景色に粒々と水滴たちがやってきて、
視界をすべり落ちては灰色の道を黒く染めていく。
たびたび起こるこの出来事に、私はすっかり慣れっこになっております。

ご本人はと言いますと、小雨も嵐も鬱陶しいというような口で
お洗濯の算段がつかぬことなどを時々お話されますけれども、
それでもその御心うちは案外この煩わしい空模様を楽しんでおられるようで、
それがこちらの気持ちを少なからず身軽にしてくださっているのではないか、
などと勝手に見当をつけては浮かぬ天気にも挫けずに過ごすことができている
そんな此の頃なのです。

夏太郎さんは奇遇なことに、私の生まれた町にお住まいということで
これも何かの御縁かと嬉しい気持ちでおりましたが、先日のことです。

駅前でお蕎麦など食べましてから、
思い出の跡地をぽつぽつ夏太郎さんと二人、訪ねて参りました。

私がほんの小さい時分に踊りのお稽古をしておりました教室や
小学校までの深緑の通い路。
一家で暮らしていた集合住宅から、夕闇越しによく眺めた線路近くの釣堀。
なくなって街並に溶けて消えてしまった保育園。

記憶の地図と照らし合わすようにして、
どんどんと夏太郎さんの手を引き、私は歩き回っておりました。

やがて歩いてゆくうちに、あんまりにもその町が小さく
あっという間に自分の思い出探しが終わってしまったことに
私は愕然としました。

世界の果てだと恐れていた地帯はあまりに身近で、
悲しいほどにつまらぬ景色に変わってしまっておりました。

いえいえ。

景色が変わったのか、私の心がつまらなくなったせいなのか、
それはどちらとも決めず曖昧なまま泳がせておきたい気が
今はいたします。

暮らしていた建物は跡形もなく滅び、何か別の場所になることが
決まっているとだけ、看板は指差しておりました。

その場所から程近いところに夏太郎さんの住まいはあり、
電車の行き交う音が心地よく響いては彼の部屋を揺らしているのです。

冷凍されていた時間が、
枕木の上でゆっくりとゆっくりと現在に溶け始めていくように感じます。

不思議なめぐり合わせを思いながら、
雨降る時刻と洗濯物の心配などをしつつ本日も外出をいたしましょうか。
夏太郎さんと、そんな相談をしております。










posted by 2/5、地図書きのゆみ at 03:22| 東京 ☁ | TrackBack(0) | 作文集(ひまつぶしによむよみもの) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする